2000.11.28 by 猛牛
 美しい器である。

 これは今年の7月に福岡市天神は警固神社で行われた夏祭りを見学した折、振舞酒をしていた伊佐錦さんのブースで『黒伊佐錦』5合瓶を購入した際に進呈されたものである。

 堂々と自己を主張する『伊佐錦』のロゴ。恣意的な要素を排除した、大量生産的形態。5:5、6:4・・というシンプルな数字と目盛が刻印された、実用性の高さ。こういう所がぬぅあんともわての美意識をくすぐるのだ。

 “芋焼酎原器”とも言うべき無駄を廃した効率性重視のデザイン・仕様に、産業とARTと大衆飲酒生活との融合が見て取れる名器である。ま、芋焼酎的バウハウスか(爆)

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 かつて柳宗悦は、身近な生活雑器に美を見いだし「民芸運動」を興した。たが結果的に、民芸人気が皮肉にも民芸の“作家性”を高めるという逆作用を起こしたのではないだろうか、という気がする。作家性とは極めて限定的に申せば、作家個人の恣意性、そしてそれに対して美的付加価値を見いだすことと定義づけられよぉ。

 逆作用とは、鑑賞者および購入者が抱く付加価値に、作家自身が迎合することである。だから素朴ないい風合いの器を作っていた若い窯元が、突然生活雑器を捨て転進。抽象的おゲージュツ風“作品”を量産したりして、がっかりさせられる目にあったりする。

 それは美的付加価値なるものに対して、金銭的価値が伴ってくるからだ。

 ところが逆に、この器は“無欲”である。“無心”である。ついでに“無料”である・・・いや、無料ではないな。催事の時に『伊佐錦』を買えば貰える(爆)。だから、わてにとっては美しいのである。実用一点張り、ヤワな作家性など毛ほども無い姿勢が“清い”のである。

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 これはなにも器だけの話ではない。器に注ぐ焼酎そのものにしても、現今のブーム、造る側も飲む側もある意味“作家性”に呪縛されているのではなかろうか。でないと“プレミアム価格”なんぞが発生する理由が無いし、それを当て込んだ商品が啓蟄の如く這い出るはずは無かったいねぇ。

 “大量生産品”だから、ネーム入りだから価値が無い、と思ってはまだまだ浅いぃ。

 このグラス、『黒伊佐錦』を注ぎ、「グラスの横に商品名と目盛があってもいいじゃないかっ(爆発)」、なんてつい岡本センセの様に言って、グイッ!と飲みたくなる器である。


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