2002.08.08 by 猛牛 監修/けんじ

粕取焼酎の飲み方・・・初手は糖類添加で。

現在、粕取焼酎は酒販店や量販店での店頭化が著しく衰退している商品である。そのため、まずもってなかなか手に入りにくい。また店頭に珍しくあったとしても、どうやって飲むべきかちと悩みなのである。

もちろん米・麦・芋などのメジャーな原料のように、生・ロック・水割り・お湯割りという定石で飲むのもよい。ま、お好きなやり方で・・・といえば元も子もないですにゃ。

しかし粕取焼酎が、その悠久の歴史の中で伝統的に飲まれていた方法が、砂糖や蜂蜜など甘味料の添加である。特に、初心者の方は、ぜひ甘味料を入れて飲んでみていただきたい。甘味料の種類としては、

●普通の白砂糖
●グラニュー糖
●氷砂糖
●蜂蜜

など、地域によって異なるものが使用されている。お好みでどうぞ!

梅酒の漬け込みに、絶品!の粕取焼酎。

そのままで、または砂糖を加えて・・・というのも良いが、もうひとつ絶対にお勧めしたいのが、梅酒を粕取焼酎で造るという飲み方。これは本当に美味い!絶品だっ!

例えば35度以上の高い度数の粕取焼酎を梅酒用として販売しているのが杜の蔵さん、銘柄は『常陸山』。蔵で実際に自家用のものを飲ませていただいたが、ホワイトリカーと比べたら全然風味や味の深みが違う。も、メチャ旨である。

梅酒を漬けるなら、粕取焼酎でぜひお試しいただきたい!

粕取焼酎+甘味料という飲み方の起源。

粕取焼酎と甘味料という取り合わせについては、北部九州各地に拡がっている。

大分県日田近郊の山奥に生まれ育った方の話でも昔は砂糖を入れて飲んでいたというし、また筑前でも先日覗いた福岡市早良区の某酒店の大将によると、そのエリアでは氷砂糖を入れていたという。佐賀県でも同様に砂糖添加である。まるで紹興酒だ。

さらに全国的に見ても、以前合評会で取り上げた会津若松の華の酎は、女性が美容と暑気払いのために砂糖(原品は元グラニュー糖付き)を入れて飲んでいたものだった。

汎日本的に糖添で焼酎を飲むという風習があったようである。

その起源なのかどうか定かではないが、純心女子短期大学教授の越中哲也氏が長崎料理について書かれた中で、焼酎の飲み方に関連した文章がアップされていたので紹介する。

『長崎開港物語・料理編』http://www.mirokuya.co.jp/bunka/bunka9.html

これによると江戸時代の長崎ではオランダ人が夏の暑気払いに「ポンス」という飲み物を飲んでいたそうだ。ポンスとは、アラキ酒(焼酎)2合に橙の酢を混ぜ、白砂糖を加えて一煮立ちさせ、さらに水煮(?)を少々入れたものという。どんなものか判然としないが、洋の東西を問わず暑気払いには砂糖入りの焼酎が有用であったようだ。

さて、砂糖添加という風習、オランダ起源なのだろうか・・・?

粕取焼酎の飲まれ方の背景にあった民俗世界。

粕取焼酎が、かつてどのような生活の場で飲まれていたかについて、若干触れる。

●早苗饗(さなぶり)
この言葉、『語源大辞典』(東京堂出版)によれば、田植えの終わりの祝いを意味する。サナボリ、サノボリ、サナウリ、サナゴなどの言い方が残る。田植えの始めのサオリに対する言葉で、サは田植えの神を指し、「サ降り=サオリ」「サ昇り=サノボリ」と神の降臨と天への帰還を表していると同書にあった。

かつて田植えには田楽という芸能が付き物であったが、それは農作業の厳しさを和らげるためにも必要であったという。最もハードな作業といわれる田植えの後に、振舞酒として宴席に出されたのが「早苗饗(さなぶり)焼酎」である。田植えの最後に神を見送るねぎらいの場は粕取焼酎の酒盛りだった。

ところで、労働集約型、つまり人手が掛かる産業であった昔の農業地帯では、農作業や家屋の普請なども近隣が協力して作業にあたっていた。各戸の作業に互いが人手を出し合うという、村落共同体内での相互扶助の連帯が、早苗饗焼酎の背景にある。

早苗饗焼酎については、現在の時点で福岡県筑後地方や佐賀県でも同様の飲用慣習があったことを確認した。多分他のエリアでも同様であった可能性が高いが、確認できていない。

ちなみに早苗饗の名を冠した粕取焼酎は、杜の蔵さん(福岡)、天吹さん(佐賀)の2蔵が商品化している。

●盆焼酎
焼酎は俳句の季語では夏である。筑前・筑後や肥前にしても、焼酎を夏の暑気払いに飲む風習が拡がっていたようだ。それが「盆焼酎」という言葉になって遺っており、福岡や佐賀でも同じ文句が使われていた。

先に触れた福岡市早良区の酒販店の大将は、「盆焼酎と言うて、夏場の暑いときによく飲まれていたもんでね。氷砂糖を入れて飲むんだ」と往時の状況を語っていた。

ところで福岡市早良区西部から西区にかけて今は都市化が伸展して見る影もないが、20年ほど前までは田園が拡がる農村地帯であった。

かつて、粕取焼酎を誰が飲んでいたのか?

北部九州の粕取焼酎は、かつてどのような人々に愛飲されていたのだろうか。

これまで伺った蔵元さんの話やわてら自身の見聞の結果を総合すると、

厳しい労働条件で働く人々の酒

という結論になる。筑後では農業、山間の杷木町では林業従事者も顧客であった。北九州市八幡では製鉄所の未組織労働者の間で愛飲されていたのは甲類焼酎だったが、筑豊・直鞍あたりでは周辺の農業従事者に加えて炭坑の採炭労働者たちも粕取焼酎の顧客だったようだ。

この当たりの事情を察する記事が、筑前の有力紙・西日本新聞社のサイトにあった。福岡県糟屋郡にある光酒造さんに関するものである。これによれば、炭坑地帯を中心に粕取焼酎が庶民生活に定着していたことがわかる。

西日本新聞社「わが街わが酒」
http://www.nishinippon.co.jp/media/A-3000/0101/sake/waga/n9.html

こうしてみると、労働条件がハードな職業ばかりである。仕事の疲れを癒すために、安価かつ酔い覚めさわやかな焼酎の特質がピッタリだったのだろう、と想像がつく。

嗚呼。粕取焼酎よ、時代に殉じることなかれ。

まとめてみれば、近代化と産業構造の変化が、粕取焼酎の需要基盤を消失させたと思える。

農業は機械化が進んで労働集約型の色彩が薄くなり、工業化に伴う大都市への人口集中のために、過疎が進展して共同体そのものの基盤も危うい状態となった。林業は安価な輸入材攻勢により産業としての存立の危機に今ある。石炭産業もエネルギー革命の伸展でその命脈を断たれることとなった。

つまり粕取焼酎を支えていた庶民の、日々の糧を得る暮らしが激変に曝されたのである。

先の記事にあった「昭和40年前後に焼酎が売れなくなり粕取からもろみ取りへ移行」せざるを得なかった時期と、日本の産業や生活の基盤が大きく様変わりした高度経済成長の盛期とがピタリと重なっているのは、単なる偶然ではないと思ふ。

さらに追い討ちをかけたのが、ユーザーの嗜好の変化だ。筑後地方では酒席の主役が赤玉ポートワイン、ビール、減圧麦焼酎などに取って代わられて、粕取焼酎の出番は少なくなったという。ライト志向が強まる中、古くからの粕取焼酎愛飲者が高齢化し他界することで、さらに市場縮小の進み具合に拍車が掛かってしまった。

時代を体現したが故に、時代に殉じる運命を負わされたかのような、粕取焼酎。このままでは北部九州の伝統的粕取焼酎はただ消え去るのみである。今はまさに粕取焼酎存亡の土壇場を迎えた重大時期と言えるだろう。

しかし、時の流れに殉じてもらう訳にはイカンとわてらは思っておる。“酎魂碑”を建ててよすがを忍ぶなど、もってのほかなのじゃと・・・。Now's The Time。


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