2002.08.26 by けんじ

■目次
1)序論:「粕取焼酎」とは、なんぞや?
2)米どころに誕生した必然性とは?
3)リサイクル農業の元祖は「粕取焼酎」だった?
4)エコ・リサイクル材=「下粕」「粕取焼酎」の作り方
5)粕取焼酎を襲った近代化の荒波
6)戦後の激変に晒される粕取焼酎
7)粕取焼酎、今、そしてこれから・・・
序論:「粕取焼酎」とは、なんぞや?

粕取焼酎は清酒粕中に含まれるアルコールを蒸留してつくるので、東北でも、長野でも、出雲でも、全国至る所で産出するのである。

その中でも、筑後地方を中心とした北九州地域の粕取焼酎は「早苗饗(さなぶり)焼酎」と言われ、他地域と比べ歴史、量、質の深みがある。

例を挙げよう。昭和二十三年「全国粕取焼酎協議会」が発足したが、三分の一は福岡県のメーカーであったという。会員は天満宮(本家はもちろん福岡県の大宰府天満宮)の神領田所在地が多かったらしい。それに今は残念ながら絶えてしまったが、本州や四国では珍しい「粕取焼酎専業メーカー」が筑後地方を中心に複数点在していた事でも分かる。

この福岡が誇る「早苗饗焼酎」は衰退の一途を辿っている。そりゃそうだ。どう考えても「早苗饗焼酎」の籾殻に由来する焦げ臭が漂う風味は現在のソフト嗜好からは完全に外れている。

蒸留技術の進歩により、粕取にも「大吟醸粕取焼酎」など香りも味も柔らかな焼酎も出来た。好き好んで現代の嗜好から外れ、売れない「籾殻混ぜ蒸留」の粕取焼酎を作る方が酔狂である。現在の状況といえば、昔からのユーザーや、梅酒用、漬物用に購入するオバちゃんのために各メーカーが細々作っているだけと言って過言ではない。

◇   ◇   ◇

この現状に立ち上がったのが我らが「粕取まぼろし探偵団」でアルッ(梶原一騎の劇画調で)我が団の追い求める「早苗饗焼酎」は、籾殻を使った「正調粕取焼酎」である。

ここで、「正調粕取焼酎」の定義を確認する。

1)蒸留の際酒粕に籾殻を混ぜること。
2)酒粕は1の方法であるなら吟醸粕でも構わない(例えば大分の碧雲)
3)蒸留器は蒸篭式がベスト
の3点。

しかしこの定義は厳密ではない。最終的には「探偵団」の舌が決めるいい加減さ(爆)である。

さて、次は各論である。如何に粕取焼酎が如何に北九州で根付いて来たか、筑後地方を中心に知ったかぶりたい。

米どころに誕生した必然性とは?

河合継之助が「実に筑後は沃野千里、川は数々ありて運送は好し、この上なき上国ならんか」(『西国遊学』)と感嘆し、武田鉄也が「筑後の流れにい〜小鮒釣りする人のかげえ〜」(「思えば遠くへ来たもんだ」by海援隊)と唄った筑後川と筑後平野。

この恵まれた沃野は、はるか古代、女王卑弥呼の時代から(異説あるが)筑後地方は我が国有数の稲作地帯であった。

さらに、十七世紀から十八世紀にかけては耕地面積、米の生産高も倍増するという素晴らしい農業の発展がなされた。後述するがこれには「粕取焼酎」が大きく関与している。

このように、豊かな米と水が揃った筑後地方は、江戸期より清酒処でもあった。戦前の話だが「西の城島、東の灘」と称され、日本三大銘醸地として隆盛を誇った時期もある程である。

清酒を造れば大量の清酒粕が出る。その酒粕を蒸留して江戸時代初期には既に粕取焼酎は作られていたらしい。江戸時代初期には琉球から薩南に伝わった蒸留技術が、清酒地帯である筑後など北九州に伝わり、さらに全国に伝播したとみられる()。

さて、日本全国に広まった蒸留技術と粕取焼酎は南九州のように飲用ではなく、刀創用の消毒用としての役割が主だったようだ。筑後はどうだったか。前述の「十七、十八世紀の農業の発展」に関わっていく事になるのである。

※粕取焼酎の蒸留方法について、「杜の蔵」の森永社長は「粕を団子状にして籾殻をまぶす方法など、中国、朝鮮半島などの固体麹に通じる所がある。蒸留方法の影響は、南九州だけでなく半島経由の影響もあったのでは。地理的にその影響を受けた北九州の粕取焼酎が全国に広まったのではないか・・・と愉しい想像が膨らむ」とおっしゃられていた。

リサイクル農業の元祖は「粕取焼酎」だった?

「焼酎屋は、産業廃棄物処理業だと言われましてねえ・・・」

以前、筑後平野の一角にある福岡県三輪町の焼酎製造元『天盃』を訪問した際、多田社長がおっしゃった。

その言葉の通り、筑後の焼酎業者は「廃棄物」の酒粕を「処理」しアルコール分(粕取焼酎)を抜き取った「下粕」を取るのが目的で、処理した過程で出て来た焼酎は「副産物」に過ぎなかったという。

この「下粕」が江戸期の筑後地方の農業を大きく変えたのである。これについては『焼酎学入門』(穂積忠彦・毎日新聞社・昭和53年刊)から引用したい。

「筑後平野の米作の発展に大きく寄与した功労者に糸島(福岡県)の宮崎安貞がいる。彼は佐藤信淵、大蔵永常とともに江戸時代の三大農学者といわれ、江戸時代の農学の基礎をつくった。彼の有名な『農学全書』は元禄九年(1696)に刊行されている。酒の下粕を稲作の肥料にするという技術の開発は宮崎安貞の指導によると思われる」

「またこの酒粕取焼酎と下粕の利用を引きついで来たのは福岡県では大宰府、粕屋、糸島、八女など大宰府天神の神領地域の農家に限られていた」

と二つの興味深い話が出ている。

「下粕」利用は絶大な効果だったようだ。さらに水利事業(筑後平野にある西鉄甘木線の「大堰」駅はそのなごり)等が相まって江戸時代中期の耕地面積、米の生産高の倍増に結びついたと思われる。

また後者の引用は、糸島の人が「下粕」利用を進めていった事(宮崎安貞)、そして糸島も含めた大宰府天満宮の神領を中心に筑後地方に広まっていった事を示すものと考えられる。

現に『焼酎の事典(菅間誠之助編・三省堂)によると「現在粕取焼酎を専門に製造しているメーカーを所在地別にみると天満宮の神領田があったところに多い」との記述がある。確かに、現在「まぼろし探偵団」で追っている糸島(西区周船寺ではあるが)の『池田、粕屋の『光酒造』さんなどが思いつく。

エコ・リサイクル材=「下粕」「粕取焼酎」の作り方。

さて。江戸期のエコ・リサイクル「粕取」さて、その「下粕」そして「粕取焼酎」はどうやって作るのか? それを解説してみよう。

◇   ◇   ◇

春になると、筑後の農民はメイメイ籾殻を持って酒屋にやってくる。焼酎の蒸留を手伝って肥料を手に入れるためである。

昔の清酒粕は圧搾機が稚拙なため、アルコール分がたっぷりしみ込んでいた。そのタプタプしている酒粕に水を撒きながら桶の中に丁寧に踏み込み、密閉して寝かせておく。寝かせる期間はまちまちで、より下粕を多く取りたい場合はさらに長期(一年以上寝かせた場合もあったらしい)に渡った。

この貯蔵期間中に酒粕中のデンプンは酵素の働きによって糖化され、更に糖分は酵母の発酵によってアルコールになる。

『酒精及焼酎』(黒野勘六著・厚生閣・昭和23年刊)は粕取焼酎の製造法を詳しく解説してある稀な著作である。一部引用する。

「打ち水の量は普通酒粕10貫に対し5〜6升が適当である。先ず六尺桶に漬け込む場合には5寸〜1尺位踏み込んだ所時、ジョーロで約1升5合〜2升位の水を打ち更に5寸〜1尺踏み込んだ時ジョーロで前と同じように打ち水をする。蒸留に当たっては先ず酒粕に1割の籾殻を混入し7分から1寸位の団子にし蒸篭に入れる」

との事。

余談だが、内田百聞はこの様子を自著『御馳走帖』の中で「鍬のような物で熱い酒粕をひろげて掘り返して、その上から籾殻を振りかけて引っかきまわす」と書いている(ちなみに百鬼園先生の実家は岡山の清酒蔵)

蒸留機はもろみ取り焼酎の場合と異なり、甑又は蒸篭を使用する。アルコール分とその他の揮発成分をすっかり蒸留してしまうと、この後にアルコール分のない「下粕」が残る。ちなみに蒸留前の酒粕を肥料にすると稲の根がやられてしまう。

◇   ◇   ◇

下粕をとった後のアルコールももちろん貰う。この酒精は、濃くて、独特の風味はあるがサッパリとして、糖分を入れて飲むとさらに疲れを癒してくれる。しんどい田植えが終わった。さあ「早苗饗(さなぶり)」である。夏の暑い盛りには「盆焼酎」としてあおる。

この二つの民俗文化は「粕取焼酎の飲み方・飲まれ方」を参照して頂きたい。

◇   ◇   ◇

夏が終わると秋がくる。収穫だ。下粕で育った稲は収量が多くで質も素晴らしい。年貢を納め、清酒蔵にも米を納める。そしてまた春が来る・・・・・。

筑後の米どころでは稲作と酒づくりと焼酎づくりが、素晴らしいサイクルで共存していたのである。

粕取焼酎を襲った近代化の荒波。

粕取焼酎は酒屋だけが作っていた訳ではない。明治の中ごろまでは清酒蔵から粕をもらい、自家醸造も盛んに行われていた。土間にせいろ蒸しの蒸留器を置いて、実に簡単な設備で作っていたらしい。

肥料作りから始まった粕取焼酎も、肥料の近代化に伴い、さらに自家醸造も禁止となり、飲料としてのみ作られるようになった。

それでも独特の風味は、「早苗饗(さなぶり)」に使う筑後の農業従事者、山林労働者に根強い人気を誇った。さらに福岡県内では、明治期以降の富国強兵策に伴って出来た新たな産業の労働者、例えば筑豊に代表される炭鉱で働く労働者、沖仲士、八幡製鉄所の労働者などの激しく厳しい環境で働く人々が、生地であおって明日への糧としたという。

ここに「車夫馬丁の酒」といわれる近代の「労働者階級」の酒として定着したのだ。

◇   ◇   ◇

しかし、やがて「新式焼酎(=甲類焼酎)」が粕取を駆逐していく。

二度の対外戦争で軍需用アルコールの需要が高まってきた。こうして、明治後期には日本各地に近代的アルコール工場が設立されたが、台湾の領有に伴って、廃蜜糖から作った安価なアルコールが流入してきた。

内地のアルコール工業が価格面で太刀打ちできず、民需への転用を迫られた。そこで、水で薄めて「新式焼酎」として転用を図ったのである。

無味無臭の「新式焼酎」の中に、最も旨み分の多い粕取を混ぜた焼酎は「ハイカラ焼酎」といわれ都市部で受けた。二度の世界大戦を経て、この焼酎は全国的な焼酎の主流となり、北九州市などの都市部ではこの「安い」「新式焼酎」が主流になった。粕取は当時「安くは無かった」(ゑびす酒造、田中代表談)のだから。

先に出た『酒精及焼酎』に昭和23年ごろの焼酎事情を書いた部分があるので抜き出してみたい。

「新式焼酎の進出するに至り粕取焼酎に新式焼酎を混和して発売せられる様になり世人の嗜好も漸次変遷し現今に於いては新式焼酎を添加するに過ぎない状態になつて来た。然し田舎に於いては今尚純然たる粕取焼酎が愛用せられている処が少なくない」

と・・・・・

戦後の激変に晒される粕取焼酎。

第二次世界大戦後は、酒粕が不足し、筑後の焼酎専業メーカーでも雑穀や芋を使って戦後の混乱期を乗り切ろうとした。鹿児島の黒瀬杜氏が筑後に入ってきたのも戦後である。この物不足時代のカオスで、今までの「酒の秩序世界」が筑後でも崩れてしまった。

まず内部の要因である。もちろん純正な材料を作って焼酎、清酒を作っていた蔵はあるが、前者は添加物、後者は三増酒により自らの信用を落としてしまった。

さらに外部の要因。農村部である筑後でも「新式焼酎」いわゆる「甲類」が進出し、されに「赤玉ポートワイン、ビール、ウイスキーが進出してきた」(杜の蔵・森永社長談)この戦後の状況については「筑前粕取ON THE ROAD」内の蔵元の生の声を参照して頂きたい。

もちろん「盆焼酎」「早苗饗(さなぶり)」の行事ごとには根強い人気はあったのだが、ユーザーも高齢化の一途を辿り、世間一般のソフト嗜好にも合わず生産量も減っていった。

さらに追い討ちをかけたのが「第一次焼酎ブーム」である。安くて“ソフトな”大分の麦焼酎や、宮崎のそば焼酎が席巻してきた(ちなみに筑後は、『くろうま』や『天照』など宮崎焼酎のシェアが高い)。これに対抗するために清酒蔵、専業蔵などの粕取メーカーは、雪崩を売って麦焼酎に転向、または主力製品にしていった。

◇   ◇   ◇

この流れの中で粕取一本で対抗した男がいる。今は無い筑後城島の『九州進醸』小野博正社長である。

「他の焼酎にはない素朴な味わい。過去のものにするには早すぎる」と語り、主力製品「香露」を丁寧に造り、樽や甕などの長期熟成した製品で時代の流れに対抗したが・・・。抗しきれず、やむなく廃業された。

実際『香露15年樽貯蔵』を飲んだが、減圧麦焼酎全盛の当時にはハード過ぎると思われる(爆)逸品だった。なお探検隊内コンテンツ「酒造まつりと物産フェア」に偶然発見された『香露13年もの原酒』を飲んだレポートがあるので参照して頂きたい。

粕取焼酎、今、そしてこれから・・・。

さて、筑後を中心に見てきたが、福岡県の現状はどうか。

第二次焼酎ブームを迎えた今では粕取に新たな風が吹いている。「大吟醸粕取焼酎」である。籾殻を混ぜず吟醸香を抜き取った逸品である。

新たな粕取ルネッサンスに拍手を送りたい。が、「正調粕取」は風前の灯火になってきたのは序論で述べた通りである。

福岡県内の粕取専業蔵は筑後では前述の『香露』で絶え、5年前(1997〜8年頃か?)福岡市西区『池田』醸造元の中原茂夫氏が廃業され、完全に伝統が絶えた。さらに、佐賀県の大手日本酒蔵でも「正調」をやめ「大吟」一本にされる所が数社あるらしい。間違いなく「正調」の伝統は絶えようとしている。

◇   ◇   ◇

しかし、時代の荒波の中でしぶとく残っている「正調」も少なからずある。

大宰府の『大賀酒造』では「地元の人のニーズに応えて作ってます。やめるつもりは全くない」という。また三潴の『杜の蔵』では古老の「昔の早苗饗は旨かった」との声を聞き、昔ながらの蒸篭・かぶと釜で「早苗饗焼酎」を復活させた。

同社・森永代表は「女性の方が変な先入感を持たずにイタリアの粕取焼酎・グラッパのような感覚で飲んでくれるんですよ」と笑みをこぼす。早良区のおばちゃんも「梅酒をつけるにはこれがいい」と断言する。

どっこい、まだ生きている。

とにかく、私も含め団全員がこの重くて臭い、存在を激烈にアピールする正調粕取焼酎にほれ込んでしまったである。蟷螂の斧かもしれないが「正調」復興のため、探偵団は土日に北九州一円の酒屋に出没するのである(爆)


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