2001.09.28 by 猛牛

1919年、建築家ヴァルター・グロピウスによって“芸術と技術の融合”“工業化デザインの創造”を目指した造形学校『バウハウス』は創設された。1933年、“大ドイツ的健康芸術”を咆吼する第三帝国純血ゲージュツ政治家たちによって閉鎖された同校ではあったが、現在においても生産されている製品を生み出すなど、その後のIndustrial Artに与えた影響は大きい。

閉鎖から70年近く。『バウハウス』は「形態は機能に従う」という理念を唱えたのだが、工業化産業化の加速度が急激なテンポで進行する現在では、その理念はさらに進化を余儀なくされたと言えよう。

その進化を一言で表すなら、「形態は、機能を前提として生産・流通・消費の各段階における効率性に従う」と言い換えられるかもしれない。

機能性が高いのは大前提であって、その機能性を最小の努力で具現化する生産レベルでの効率性、その製品を運び保管し店頭化するまでの流通レベルでの効率性、店頭化されて消費者が購入し使用して便益を得る消費レベルでの効率性・・・この効率性のトリニティの構築が、現在のIndustrial Artに必要な理念となっているように思ふ。

しかしながら、機能性・効率性のみで満足できないのは、人間の性である。「ワンパックでもいい、たくましく育って欲しい」という、理屈では解析できない心情.感性こそが、自らに合致した形態を選ばせる最終的なカギとなることも、多々ある。


というわけで、格調高い前説に続いてご紹介するのは、『桜島』の紙パック、ぬぅあんである。

人間の長い消費の歴史において、この紙パックほど革命的な工業デザイン・意匠は無い、とわては信じておりますにゃ。一升瓶に比べて、軽量でコンパクト、運びやすく、保管も容易。しかもいぢ汚い飲兵衛にとって嬉しいのは“倒れても割れない”ということ。さらにゴミとして出すのにも、焼酎愛飲亭主族にとって不必要な肉体的・精神的疲労を覚えることが少ない。ご同慶の諸氏には実感であろう(~Q~;)。

さて、これらの便益はそのまま生産・流通の段階にも当てはまる。製・販・消の3段階それぞれにとって、極めてロスの少ない、完成されたパッケージだ。

しかし、ここでよく問題となるのは、紙パックなるものが「理屈では解析できない心情.感性」を満足させてくれる器であるか、どうかだ。

□四面の櫓の上に△野郎が飛び出したような幾何学的な形態そのものには、感性的な要素は極めて少ない。

エラソに語るわてにしても、容器だけを見れば一升瓶の方がぬぅあんとも重厚な民俗的イメージが漂って好きなんである。いかにも「飲んでます」てムードが。

しかし紙パックでも一升瓶にしても重要になるのはグラフィックの要素であって、この『桜島』の紙パック、他社同種の商品群の中にあって、わての「理屈では解析できない心情.感性」を最も満足させてくれるパッケージなのら。

薩摩を最もイメージさせるこれ以上はないというネーミング、そのネーミングをどんとアピールする雄渾な筆致、表3面分一杯に拡がる灼熱した活火山の躍動感を見事にビジュアライズしたイラスト・・・。

工業化・産業化の粋を極めた器とその表面に展開された「民俗的風景」のマッチングは、単に形態の機能効率性のみならず、トータルに感性へ働きかけてくるところが、エライ。

もちろん中身の旨さは定評あるところ。文句はないんである。最上部にあしらわれた「気質と品質」の文字が、パッケージデザインと中身の思想を全てを物語っていると言えるだろう。


「あーた! こげん一升瓶や五合瓶ばいっぱい転がして、ゴミ捨てん時、どげんするとぉ?重たかろうもん!(-"-)」とか、「あのさぁ。田舎臭い一升瓶をゴミ捨てに出すのって、なんかご近所の手前、恥ずかしいのよね・・・(-ー;」などなど。

一升瓶や五合瓶のパッケージデザインが内包する民俗的飲酒生活の美意識を共有し得ぬ、そんな家庭生活を過ごされているカタコンベ的焼酎愛好諸兄には、ぜひぜひこの『桜島』紙パックをお勧めしたい。

本格焼酎の持つフォークロア的世界と工業化世界、二つの視点からの満足と解放、そして陶酔のひとときが同時に得られるであろうこと、わてが請け合います(自爆)


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