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■袋のあまりの美しさに、つい・・・(@_@;)
先月末のことである。 宮崎県は『萬年』の渡邊幸一朗専務が、正調粕取焼酎『ヤマフル』の試験的復活に関するヒアリングに佐賀県唐津市へと同行されたことは既にお知らせした。その時、萬酎國皇帝であらせられる渡邊専務と、建国の影の立て役者である高級参謀・石原けんじ大佐の二人が手にしていた物があったのだった。 それは黄色と青の二つの袋で、その土手っ腹には「萬年」の髭文字が燦然と輝いていた。一目、その素晴らしさに体が兜釜と蒸篭の様な状態になってもぉた。うん。 今回、ついついついご両人からゴォーインに頂戴したその袋を、まずはご覧いただこう。 |
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『萬年』の髭文字ロゴがプリントされた手提げバッグ。横31cm×縦48cm×幅10cm。このバッグを初めて見たとき、わてはそれこそ昔、幼稚園に行っていたころの手提げを思い出してしまった。 |
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同じく『萬年』の髭文字ロゴがプリントされた手提げバッグ。横33cm×縦48cm×幅9cm。袋そのもの素材やデザイン、ロゴのあしらいなども含めて、黄色から比べると、よりモダンになっているのが解る。 |
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これらふたつのバッグについての所見は、以下の通り。
1)見比べてみると、どー考えても【萬年's Blue】の方が新しい時代に製作された感じがする。時代的には黄色が先で青が後。 さて、次に出てくるのは疑問、 これらの袋は何のために使われたのか? ・・・ぬぅあんである。若い方なら「販促用のプレミアム(景品)」なんて解答も飛び出すかも知れない。実際、そういう使い方もされたのかもしれんばってん。 ■バッグの中に秘められていた、昭和の宮崎焼酎的民俗世界。 そこで後日、宮崎県田野町にいらっしゃる渡邊専務へ用途についての確認するために、メールを差し上げてみた。下記が専務から頂戴したその回答である。 |
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これらのバッグ、ぬぅ、ぬぅあんと、とんでもない年代物だった。びっくら(@_@;)
【萬年's Yellow】が昭和30年代の製作ということで、昭和30年(1955)で48年前、昭和39年(1964)でも39年前だ。少なくとも40年は経過していると見て間違いない。また【萬年's Blue】は昭和40年代として同様に、昭和40年(1965)で38年前、昭和49年(1974)でも29年前と、30年長期貯蔵の品であった。 幸いにして“天使の分け前”は見あたらず、両バッグともまさに“新品”そのものだ。 ◇ ◇ ◇ そして品物と同等に貴重だったのは、その証言である。渡邊専務の文章は極めて簡潔ではあるが、語られている内容の奥行きは深く、そしてその価値は重い。 用途としては、蔵に焼酎を買いに行った際に瓶を持ち運びするバッグだったということで、地焼酎蔵として極めて地元の生活に密着していたその有りようが窺える。 読んでいると、買い物カゴを下げて市場の個人商店に買い物に行っていた主婦たちの姿が、メールの行間から滲み出してきた。売る方は四角く切り裂いた古新聞紙にくるんで手渡し、買う方はカゴに入れて持ち帰る・・・前垂れを着けて御店の袋を下げたご用聞きが各戸を訪問する・・・わてがガキの頃のそんな暮らしのひとコマが甦ってくる。 「ちゃ〜す! 焼酎屋ケンちゃんっす!」 宮崎県田野町では、渡邊専務がまだ子どもだったという昭和54年(1979)頃まで、地域の人々がこれらのバッグを下げて渡邊酒造場に買いに出かけていたのだ。でも、今この袋を持っている田野町の人達は何人いるだらふか? ほとんどが、日常の中で使われ消耗し消えていったんだろうにゃ。 「でもすぐに見かけなくなりました」・・・と専務が語る昭和54年前後は、あたかも甲類全盛の時期。わてが『純』なんぞを飲んでゲロっていた時、田野町では人々の手からバッグが徐々に姿を消していたのだ。甲類の伸張が、バッグの衰退と直接関係あるかどうかは、解らぬ。しかし、気になる符合ではある。 今後のより一層の事実関係の解明が待たれるところである。 |
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というわけで、『萬年』さんの蔵に残されたふたつのバッグ・・・田野町における焼酎を媒介にした生活史を語るものとして、極めて貴重な民俗学的逸品と言わねばなるまひ。 | ||||||||||||||
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