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2001.10.11 by 猛牛 | ||||||||||
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禅には、大きな二つの流れがある。それは曹洞宗の無問禅と、臨済宗の公案禅。無問禅ではひたすら雑念を払い無の境地を得んとする、公案禅では矛盾に満ちた公案を考えつくして悟りを得る、という。
個人的に学生時代から興味があったのが臨済宗の公案禅だった。『心頭滅却すれば火も自ずから涼し』なども一般的に知られた公案のひとつである。当時、わて自身といえば、その公案を突き詰めるどころか、“般若湯喫し過ぎて、心頭滅亡す”というカバな日々を送っていたのだった。喝ぅ!(遅いちゅーに) 俗世を離れて入門したいと憧れていたが、『葷酒山門に入るを許さず』という生活はほとほと無理なお話。在家での酒修行に路線を決めて、早ウン十年。“酎禅一如”、ぬぅあんて調子のイイお題目を掲げる日々と相成ったのである・・・。 ◇ ◇ ◇ という、格調低い前説につづいてご紹介するのは白石酒造さんの『蔵』のお湯割りグラスである。いやぁ〜、久しぶりに禅の精神を垣間見たような気分を味合わせてくれましたですにゃ、このグラスは。 銘が素晴らしい。『滴々在心』である。一滴一滴に心在り、という意であろうか。 この語句を単に「蔵元さんが、一滴ひとしずく心を込めて造っているんだにゃ〜(ウンウン)」などと解しては、いまだ悟りの道は遠いと言わなくてはならない。修行が足らぬ! 喝ぅ! 違うのだ。「本来焼酎の一滴に心が宿るはずはない。それは単なるアルコール分が含まれた液体でしかないのだ。しかしその一滴一滴に心が在るのは何故だ?」という矛盾を提示した公案である、と見なければならない。 もちろん、その公案を徹底的に考え抜くための修行とは、沙羅双樹の下で結跏趺坐することではなく、このグラスでじっくりとお湯割りを頂戴することである。 |
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さて、お湯割りの目盛はシンプルに「6:4」のみ。ぬぅあんと透徹した姿勢であろう。3:7か、4:6か、5:5か?などという雑念を一切払拭した、文字どおり悟りのお湯割り。「6:4で大悟す」というところか。
こう書くと、今までお湯割りグラスの目盛について書いてきたこととは違う、という意見も出よう。 喝ぅ! このグラスは、正面に書かれた公案を見て飲み考え、また見て飲み考えるという「修行」のための器なのだ。だからお湯割りの目盛が多いことは雑念を生じさせ、悟りへの道を遠ざけるからと解釈せねばならない。 ◇ ◇ ◇ 禅においては、書画も公案や悟りの境地を表すものとして重要視されていた。このグラスでも『蔵』のひと文字がポイントである。この一文字の力、まるで円相図である(おぃおぃ)。 しかしながら、確かに勘亭流+手書き+明朝体などがない交ぜとなった文字の案配は、極めて雑多、大衆的であろう。だがそれは、一人悟りの高みに昇らず衆生の許に降りて救済を図るという禅の精神に導かれた“猥雑さ”と解釈したい。「あるがまま」の飾らぬ美しさを持っていると思ふ。 というわけで、このグラス、まさに“酎禅一如”の精神を体現した名器、いや法器と申し上げて過言ではぬぅあいんである。 そして、思うんである。 高みに昇りすぎ衆生を忘れた“恣意的高付加価値価格販売可能本格焼酎販売者”にとって、いまこそ真の悟りが必要であろうと。“滴々在心”を想い“一酎一善”を為す精神である。 喝ぅ!喝ぅ!くわぁ〜っ! |
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