2006.06.06 by 猛牛

■いま、新生・唐津市に来ていますぅ・・・とです。

世に言ふ「平成の大合併」。九州でも市町村の合併統合で、多くの町や村がひとつとなって大幅に数を減少させた。その逆に一市町の面積がドッカーーーン!と広くなってしまったんである。

ここ佐賀県唐津市も、2005年1月1日に旧唐津市と東松浦郡浜玉町・厳木町・相知町・北波多村・肥前町・鎮西町・呼子町がまず第一段階の合併、そして2006年1月1日に東松浦郡七山村が二段階目の合併を果たして、新生・唐津市がスタートした。

北部九州で長く暮らした人には懐かしい、「いま、唐津に来ています・・・」という地元名物・松露饅頭の名作CMがある。しかし平成の現在においては「いま、新生・唐津に来ていますぅ」との口上も、“いささか広ふござんす”であって、唐津のどこに居るのかを明確にせねばならない御時世と相成った。

■新生なった唐津市相知町の、復活した小松酒造である。

今回お邪魔した相知町は、筑前から唐津まで海岸ベタの有料道路を突き抜けて1時間30分ほど、唐津競艇がある川を渡って佐賀市方向に南へと下った山間の町だ。ここに小松酒造株式会社はある。Dチン隊員の運転する兵員輸送車で一路筑前から相知へと向かった。

かつては大日本帝国海軍に納入する清酒を造っていたという由緒有る蔵だったが、時代の趨勢に抗えず1990年に蔵は廃業へ。それまで清酒『万齢』、焼酎『おおち』を世に送り出していたことも過去のものとなる・・・はずであった。

しかし1995年、現社長の小松大祐氏が、東京でのトップセールス証券マンの座をなげうって帰郷、蔵を再開する。

「会社は一部上場企業で、社員も1万数千人も居ました。・・・でも、いくらがんばっても一万数千人の中のひとりでしかないなと思う時はありましてね。そんな時に、そうだ!自分には小松酒造がある!と思ったんですよ」

と小松社長。

熱心に蔵の説明をして下さる小松社長。熱血漢、漢(おとこ)である。
清酒が米で出来ているとは知らなかった(@_@;)・・・という伝説もある小松社長。しかし、広島の国税庁醸造研究所、加えてある蔵元での修行を経て自ら杜氏となり、1999年に醸造再開にこぎつけることとなった。

「研究所の先生と、修行させていただいた蔵の杜氏、その二人が私の先生です。とにかく最初は、どんな酒になるのか、というよりも、飲める酒に仕上がるのか、心配で堪りませんでしたね。原料の米にしても一回の醸造で140万円くらい掛かるわけですから、失敗は出来ないんですよ」

結果として、福岡国税局種類鑑評会で優等賞を複数回に渡って受賞し、さらに2001年にはついに全国新酒鑑評会で金賞を獲得するという譽れに輝く。歴史ある蔵とはいえ、新進と同じ状態でのリスタートでこの実績、語る言葉に漂う小松社長の熱心さ(言い換えると真摯さ)を拝見していると理解できる思いがする。

「ここ数年ですね、楽しんで造るというか、いい意味で心の余裕が出てきた感じがします」

■1929年建設の蔵内を探索。

小松酒造は古く江戸時代の創業だが、現在の蔵は1929年(昭和4年)に再建されたものという。

事務所兼母屋の左手から入って奧、蔵内をご案内いただく。真っ先に目に飛び込んで来たのは蒸留器。小ぶりの機材である。

吟醸粕取焼酎『逢地』、米焼酎『おおち』がこの蒸留器から生まれる。米焼酎は清酒蔵らしく黄麹で仕込まれる。

「焼酎についても、清酒蔵としてとても細やかに気を配って造っています。いろいろと他にはない試みでやっているんですよ」

ちなみに米焼酎『おおち』には白と黒のラベル2種類の瓶がある。一瞬、白麹と黒麹かと思ったが、伺ってみると、

「黒いラベルは無濾過、白ラベルは少しだけ濾過を掛けています。焼酎というのは私は無濾過、そのままが基本だと思いますね」

■昔ながらの麹室で、全商品が手麹。

続いて麹室を拝見。小松酒造さんの麹室は、昔の仕様をそのまま活かしている。つまり、壁の隙間に籾殻を詰めて温度調節を行っているもので、遺っていることが珍しい。

右は麹室の外壁で煉瓦造り、左は麹室の壁の厚さである。ちょうど小松社長の右手の小指あたりにある縦の仕切りから前後の白いセメント部分の奧に籾殻がどっと詰まっている。籾殻の厚さは1メートル。室温は30度前後に保つように注意が払われる。

吟醸粕を使った『逢地』は当然として、米焼酎『おおち』の麹もこの室で生まれる。小松酒造の全商品が手麹だ。

※ちなみにわてがお邪魔した蔵元さんの中で記憶にある籾殻使用の麹室は、宮崎日南の古澤醸造さんと大分千歳の藤居醸造さんの二つである(記憶違いだったらゴメンなさい)。

左は掛け米などを蒸すための蒸気を出す釜。この上に米がたくさん詰まったバカでかい甑が乗っかり、蒸気を通す。右は槽(=ふね)で、1929年当時のものである。

「現在では横広の機械で圧搾するのが一般的なんですが、これはそれよりもひとつ前の形態です。いまの機械はボタンひとつ押せば自動でやってくれますが、これは手動に近いんですよ(笑)。これ以前の搾りは、梃子の原理を使ったハネ木搾りで行われていたんです」

わてはこの「ふね」を見ながら、想像ではあるけども、「もしかしたら大日本帝国海軍への清酒の納入が増大したために、設備を拡充したのかなあ」と思ったりもした。

余談だが、ふね以前の搾りに使われていた巨大なハネ木は蔵の2階に収蔵してあった。小松社長もおっしゃっていたが、太く長いハネ木をどうやって急角度の階段から2階に持って上がったのか、謎だ。とにかく半端な長さではないのである。

さて、ふねに戻って搾りについて話が続く。

「一番手間が掛かるのは、何だと思います? 袋にもろみを詰めて・・・こうやって(袋をふねの幅に合わせて折る仕草)・・・こうやって中に並べるんですが・・・一度搾ってもこの機械では全部絞れないんですよ。ですから、一度搾って薄くなった袋をもう一ふね分合わせて重ねてもう一回搾るんです。・・・それも手間なんですが、最も手間がかかるのは、袋をキレイに洗うことなんですよ(笑)」

何百枚という袋を洗うことを想像するだけで、こりゃまあ大変だなと実感である。「美味い!旨い!」と言ってるだけのわてらは、ぬぅあんとも幸せですにゃσ(*^^*)

「手間がとても掛かるので、こういう機械も使われなくなりました。でも、この機械で搾るから、私はいいと思っているんです」

■古いからこそ新しい、という不思議。

小松社長の話を伺っていて、ほんと人生とは不思議な縁だなと改めて感じる。一度蔵を閉じたことが、結果として新たな継承者を呼び戻すことに繋がったり、また旧式の設備が遺っていたことが蔵が醸す酒に個性を与え、かつ飲兵衛にはさらなる思い入れを醸成させることに結びつくのだから。どこでどう大逆転が起こるのか、人生捨てたものではないなあと。

もちろん、小松社長の必死の努力があったればこそ、の物語であるのは言うまでもない。

仕込み蔵の窓から、西日が差し込んで、小松社長の横顔に注いでいる。外は久しぶりの晴天で少しく汗ばむ陽気。しかし、蔵の中はさらりとして清々しい。

新生・唐津市の一翼、相知町の田園風景はまだまだ明るみに映えていたとはいえ、午後4時前から始まった蔵見学はあっという間に時を刻んで、気づけば7時30分を回っていたのだった。


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