2001.01.12 by 猛牛  

■“芋”的なるものの復権

・・・このカリグラフィーの圧倒的存在感。

この芋焼酎『いも麹芋』の段ボール箱と最初に遭遇したとき、わてはあまりのアイデンティファイの凄さに驚き、しばらく見つめていたのであった。いやぁ〜、実に、実に素晴らしいデザインだ。この土俗的な手触り・・・。

手書き文字に朱印もどき。コストを考慮したであろう墨+1cのカラーリング。しかし、その書体と色合いの見事に調和した美しさ。昨年関東で一升瓶を見たときにも、「芋」のカリグラフィーの美しさに感心していたのだが、この段ボール箱はさらに強烈に光彩を放っている。

これを単なる「う゛ぃじゅある・あいでんてぃてぃの統一と展開」と言ってしまえば、それまでであろう。がしかし、この大書きされた「芋」のカリグラフィーに、そういう思惑を超越して、あらゆる“芋的なるものの復権”を宣言するかの如き「意志の勝利」を、わては看取してしまったのである。

その芋的なるものとは、これまで中心の文化から疎外、または無視されてきた周縁的文化と言っていいかもしれない。(今日はいつになく格調高いねぇ〜(爆))

いも麹 弐拾六度

その昔 芋だけで造っていた
焼酎があった
それがいまここに復活
これぞ芋100%を味わえる
薩摩の芋焼酎である

こくぶ(朱印風)

■製品であって製品でない、“文化財”としての本格焼酎

しかし中心的文化は時間の経過とともに陳腐化し、周縁的文化から新しい活力を得て(または奪って)息を吹き返してきたのは、様々な歴史に現れている。

たとえば、20世紀を通じてアフロ・アメリカンが創始したスイング、ブギウギ、ブルース、R&B、ロックンロール、ソウル、ファンク、ヒップホップ・・・。アメリカのマイノリティである彼らが生んだ大衆音楽が、マジョリティである白人に模倣吸収されてその活性化に繋がったことなどは、代表的な例であろぉ。

しかし問題なのは、マジョリティの模倣吸収による一般化と比例して、その周縁的文化そのものも陳腐化していくことなんである。先のアメリカ黒人音楽の歴史は、陳腐化に対抗する民族的土俗的創造の“イタチごっこ”の歴史なのだにゃ〜。

一般化のプロセスとは、“土俗的無形文化財”から“マスマーケット向け製品”への変質と言い換えられようか。

さて、本格焼酎がいまどのプロセスにあるのか、気になっている。

本格焼酎は九州という土俗性を背景にした“有形飲用文化財”であるからこそ、マジョリティの関心を惹いたんやろうねぇ(爆)。しかし単にマジョリティを活性化させるだけであれば、陳腐化は免れない。この段ボール箱に感じたのは、自らの存立基盤である「芋」にこだわることによって陳腐化から再生しようという“意志”なのだ。

これは正しい選択だと思える。つまり“ローカルであればあるほど、ナショナルな魅力を持つ”ということ。これは先の音楽の歴史においても同様である。
(大げさやねぇ〜、ほんと)

■ささやかで力強い、周縁の抵抗

秘剣名誉隊員の手による国分酒造さんの詳細な現地レポートがある。その中に、

笹山さんが「いも麹 芋」のラベルを見せてくれた。「ここに販売店のゴム印を押して貰うスペースがあるんです」

それに、この酒は一切直接販売をしていない。酒屋さんに育てて貰った酒だから、たとえ家族、 従業員でも酒屋さんから購入するという。静かにそう言う笹山さんに、メーカーとしての良識を見たという気がした。

全文をぜひお読みいただきたいのであるが、わてはこの一節を読んで特に深く感銘した。単にマーケットに対応するための商品開発というお話なら、わてもこんな駄文は書かないわけで、問題はその先。

販売店のゴム印を押すスペースがあるということは転売を許さない、つまり不当な価格で再販売させないためである。そこには流通から末端の飲兵衛をも見据えた、蔵元さんの“志”を感じる。

わてはこれを、「文化の収奪を許さない、悪用させない」という抵抗の姿勢と解釈したいにゃ〜。それはささやかではあっても、力強さを感じさせてくれるのである。

◇     ◇     ◇

本格焼酎は中味も、そして流通も、さらに消費者も、共同体的な信頼関係を再度取り戻す時期に来たのかも知れない。それはなにも、本格焼酎の世界だけではないのである。
(ぬぅあんて、ドキュメンタリー紋切り風〆)


九州焼酎探険隊TOP