【K08 山隘の蔵に行く〜藤本本店】
 初出 2005.01.30  転載 2005.02.10
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2002年5月に訪問。

■『藤の露』との出会い

初めて飲んだのは10年ほど前(1994年ぐらい)だったか。諸塚村の物産館で器械瓶に「古酒」と大きく書いてある藤本本店の藤の露を購入したのが最初だった。

自宅でさっそく味わった。生で飲むと、丸みを帯びた麦の濃くが、甘く舌になじむ。それまで、一回も味わった事のない独特な個性を持っていた。
直ぐに、焼酎全蔵元全銘柄―496社1081酒銘柄別総さくいん付き(主婦と生活社)<という1984年に出された本でこの銘柄を調べてみた。(現在に至るまで、これを超える焼酎図鑑は出ていないのではないか)
「自然の湧き水を利用、米を原料に麦を加え風味を出している、さらに5年以上寝かせてじっくり熟成。高品質の酒を送り出している」と書いてある。
うーむ、「秘境で、熟成して、湧き水」か・・・・。焼酎マニアにとって魅力的なキーワードが並ぶ(爆 いつか蔵に行かねばならぬ・・・・。

その機会は中々やって来なかった。蔵に見学を申し込むが、林業兼、焼酎屋兼、ガソリンスタンド経営、しかも当主の藤本鞠子さんと、息子さんの一喜さんのお二人だけで切り回してるので多忙である。
そんなこんなで、幾星霜・・ようやく蔵見学の機会が巡ってきた。
2002年5月、藤の露の取引先である都城市の「さいしょ酒店」さんに仲介して頂き、幸運にも蔵の見学をする機会を得た。
さっそく車を、諸塚村に走らせた。

宮崎市から諸塚村までの道のりは「園の露」を参照して頂いて、諸塚村の中心部からさらに椎葉方面に国道327号を進む。
327号を右に折れ、国道503号に入る。狭い道が工事でさらに通り辛い。国道ではなく酷道の名が相応しい川沿いの道を20分程行く(九州焼酎探検隊・藤本本店の店先画像有り)
20分程で左に木造二階建ての藤本本店があった。道を挟んだ向かい側には、経営されているガソリンスタンドがあった。

しんしんと静かな集落に佇む蔵の玄関を潜ると、藤本一喜さんが待っておられた。
挨拶をして、本間に通して頂くと、立派な仏壇が鎮座し、先祖の写真が部屋の上部のぐるりにかけてある。趣のある昔の分限者の家だ。

香ばしい茶と自家製の漬物を頂きながら、一喜さんの話にとっくりと耳をかたむけてみる・・・・・。

■諸塚で百年の歴史を刻む。

>焼酎造りは1890年から始まったと伝わっているよ。明治24年かな。
>当初は、雑穀から作った濁り酒を作っていたらしいよ。
>先祖の太兵衛さんという人が、西南戦争で、西郷隆盛が、鹿児島の城山に立てこもる途中にこの集落に寄った時にここの酒を振舞ったって伝えてるけど・・・・・・本当かどうかはわからない(笑 
>米焼酎をかなり古い時代から作ってたんだけど、米は大分県の竹田や、熊本県の馬見原から仕入れてたみたい。
>いわゆる「駄賃つけ」でそっちの方から日用品や、米を運んできたんだろうね。


「時は明治西南の役、敗走する西郷軍。九州山脈の間道伝いに落ちていく兵士あわれなり。藤本家は薩摩なまりの落人に自家製の濁り酒などを振舞って戦旅の一時を慰めたと曽祖父太兵衛は語り伝えている。これを機に明治二十年、藤の露焼酎を創立して以来百年の歴史を有す」と「藤の露由来紀」に書いてある。

この文に書いているように、西南戦争時10歳だった初代の藤本太兵衛氏は明治20年に今の場所で焼酎、濁酒作りを始めたという。元は「麹屋」だったともいう。

閑話休題
この集落から程近い八重の平に、西郷軍を追ってきた官軍が宿泊した。官軍の記録の中に、この集落で、子供がハレの日に食べるような官軍の残飯(白米)を毎日食べて下痢を起こしてしまい、死んだものもいた。鶏も米粒を与えても警戒したという。
山村と、官軍兵の食文化はこのぐらい落差があったのだ。

米、麹などの原料は大分県竹田市や、熊本県蘇陽町の馬見原で仕入れてきた。蔵がある宮の元から1000m級の山岳地帯・飯干峠を越えると五ヶ瀬町の中心部である三ヶ所に着く。ここから、熊本県、大分県、宮崎県高千穂、椎葉方面への道が交差する九州山地の要衝・熊本県馬見原へは直ぐである。馬見原の明治、大正期の賑わいは若山牧水も「シャレた町」と書き残している程だ。

ここで焼酎作り、濁酒醸造に必要な物資を手に入れたのは容易に想像できる。竹田市方面への買い付けは少々意外であったが、五ヶ瀬村の横の、高千穂町の人は五ヶ所高原を越えて竹田と密な交流をしていた。1日がかりで主に「衣類」を買いにいったらしい。(日本の食生活全集 聞き書き宮崎県の食事 より)ちなみに同県内の延岡市には2日かかる。
「諸塚村史」によると、太兵衛氏は行商(駄賃付け?)もしていたという。行商時に高千穂経由で竹田のルートを開拓したという想像をしてみたい。

彼は、この行商の途中で、諸塚村内に恵後の崎という土地を見て、新田の開拓を思いついた。熊本の写真家・民俗研究家江口司氏が書いた「稗をめぐる冒険」や、これを引用した「山里の酒」そして「諸塚村史」に詳しいのだが、彼は川が大きくカーブする谷間の広地に、樋を使って水を引き水田化する事を思いつく。一回は失敗したが、遂に成功し稲作が可能になった。この土地の住民は感謝し彼に毎年「籾殻六石」を贈るようになった。

48歳の時、マムシに噛まれ命を落としてしまったが、その業績は、現在も残る「恵後の崎開田記念碑」で顕彰されている。この大げさにいえば「公益の精神」は子孫に継承されるのである。

■藤本一喜氏、蔵に戻る。

>6年前に、28歳で帰ってきた。実家に帰る事は就職した当初から考えていたんだけどね・・・・・・・。
>最初はね。焼酎なんか造る事は考えてなかったね。うちは焼酎の他に、林業と、ガソリンスタンドやってるからね。帰りに入れていく?高いよ(笑
>家は、焼酎より、林業が主体だったからさ、本当はその事業を継ごうと思って帰ってきたんだよ。まあ、実家に母一人というのもあったしね


藤本本店は林業、醸造業、ガソリンスタンドを生業としている。油を必要とする人はこのような土地に当たり前だがいる。焼酎も同じ。以前は地元消費が主体の焼酎醸造も含めて、後者2業は半ば、地元への「公益」の為にやっていたようなものである。

諸塚村は林業の盛んな土地である。総面積18800ヘクタールの内約95%は山林原野である。林道の総延長は日本一の距離を誇ると言われており、村民は丁寧に山を手入れしてきた。

98%が民有林なのが一大特徴である。明治15年に官有林地事業が行われた際、多くの林が国有林に編入されたのだが、当時の県議会議長である延岡の小林乾一郎が、耳川から上がってくる官の調査員に対し、鉄砲隊、抜刀隊を配置して抵抗。官の不当編入から林を守った。その林を諸塚など、耳川流域の人は大事に育て生活の糧にしてきたのだ。

しかし、近年は、価格の安い輸入木材に押されて国産材の価格が下落し、採算があわなくなったり、また、山村の高齢化と労働力の減少などから、手入れがされなくなった森林が増えて衰退している。もちろん諸塚村も例外では無い。林業が衰えるにつれて、過疎化が進み、当然藤の露を飲むユーザーも少なくなる。

>先ほど言ったように、焼酎造りを継ごうと思わなかったのは、宿里時吉さんっていう、鹿児島の杜氏さんがいたからね。いい杜氏さんだったよ・・・・・
>しかし年だったし、こんな山奥での重労働だったから、止めちゃったんだよ。
>正直言って、宮崎県は他県に比べても賃金安い。うちも低かった。宿里さんには無理言って、苦労をかけて作ってもらってたんだよ。限界だったと思う。
>で、しょうがなく、自分が4年前から造りはじめたんだけど、最初は素人だし、何もわからなかったから、中央会が出している本を読んだり、県内外の蔵に勉強に行った。


一喜さんは笑いながら話したが、長い間、焼酎造りを司どった杜氏が辞めた時は「シャレにならない」状況だったらしい。
その為、林業の傍ら仕方なく焼酎作りに携わったというのが実情だ。里の人のためには止められなかったから・・・・・。大げさに言えば、無私で新田を開拓した初代太兵衛にかぶる。3,40石の焼酎作りなど、里の為、蔵の存続の為であって儲かる仕事ではなかったのである。

それまで全く酒造りに携わった事の無い素人である。家業の焼酎造りを志して東京農大の醸造学科などに行った訳でもなく、大学も文系の学部だった。林業を継ぐ為に帰ってきた彼は途方に暮れた。

一喜さんにとって、家業の酒造りを見た経験も極く淡い記憶なのだ。諸塚村の子供は高校生になると、山を降りて日向市や、延岡市に出ていってしまう。酒造りを多少でも見たのは中学生までであったと語る。

杜氏が残してくれたノートと酒造組合中央会のマニュアル本を読んで何とか作ってはみた。当然の結果・・・・というべきか。満足したものは作れなかったという。

■腹を決めて、研鑽の日々。

一喜さんにとって、家業の酒造りを見た経験も極く淡い記憶であった。

諸塚村の児童は高校生になると、山里を降りて、日向市や延岡市に出ていってしまう。酒造りを多少でも見たのは中学生までであった。

九州中央山地の真ん中に位置する、諸塚村や、椎葉村の子供たちは高校生、早ければ中学生になる時から親元を離れて寮生活をするのである。
補助金が村から多少出ると言うものの、親にかかる月10万前後の負担。そして別れ、九州奥地の山村の春は切ない季節でもある。

前述の宿里時吉杜氏は、鹿児島県笠沙町出身の黒瀬杜氏(とうじ(焼酎台帳))である。

黒瀬杜氏は特に戦後になってから、鹿児島を飛び出し、さまざまな原料の焼酎を作った。
福岡や大分では白糠や、粕取り焼酎を、戦後の米不足によるさつまいも原料使用の為もあってか、球磨焼酎の本場、人吉、球磨郡にも行った。九州全域、四国にも渡って、清酒副産物など、あらゆる原料の焼酎を作った。宮崎の山村でも麦や雑穀焼酎を作った。

この杜氏は、母屋から離れた別棟に泊り、地元から連れてきた若い者と一緒に焼酎作りに携わった。そして例え雇い主であっても焼酎作りの技術は決して教えなかったという(川越酒造場・川越善博氏談)

杜氏は高齢の為に蔵から去った。落胆した。しかし腹を決めた一喜さんは研修と勉強の日々を送る事に決めた。

まず、本業である林業が休みの時は造った酒を持って、前杜氏に味を利いてもらった。何処が悪いのか、何処の行程に問題があるのか、短い言葉でボソッと答えてくれた。話した事をノートにまとめた。無償でアドバイスに来てくれた事もあったという。涙が出る出来事だった。

この恩人を唸らせたいと思った。
他の蔵にも出かけていった。

既に廃業した福田酒造場(福の泉・日之影町/失われた酒造場参照)の焼酎は、同じ麦米麹焼酎で「麹を丁寧作って、きちんと蒸留した」良い焼酎だったという。麹室は、小さいが非常に合理的に出来ていて、動きやかったという。
私自身、この焼酎蔵が廃業する前(2000年)に飲む機会に恵まれたが、麦焼酎独特の引っかかりとざらつき感が少なく、非常にスムースな焼酎だった。しかもコクがあった。スムーシーな飲み口が麹造りと関係があったのだろうか・・・。惜しい蔵元である。焼酎ブームを迎える前に酒税の段階的な値上げ、2001年11月までに酒造免許を返上すると補助金が出る政策で数々の蔵が消えていった。福田酒造場はその中の一つである。

■待っていた運命の出会い。

>宿里さんに聞いたり、何とか作った焼酎を、この蔵のある地域と、親戚が酒屋をやっている日向市で焼酎売ってたんだけどね・・・・・・
>まあ、村の人が止めたら困るっていうんで、それで作ってたようなもんだよ。殆ど趣味の世界だったな。
>そこに来たのが伊勢五酒店さんだったね・・・・・運命の出会いだよ。


試行錯誤で焼酎を作る日々が続いた。
その必死で作った焼酎と、まだ市販されていた前杜氏焼酎を、たまたま味わった東京の酒屋がいた。伊勢五本店の店主である。焼酎に惚れた様子、蔵見学の様子はここ<に書いてある。

店主はさっそく扱いを始めた。 
取り引きを始めると、焼酎の会などで東京に出る機会が増えた。他蔵の蔵元さんと交流する機会にも恵まれた。
球磨焼酎蔵元の豊永史郎氏(豊永酒造・豊永蔵など)「や、伊豆大島焼酎蔵元(谷口酒造・御神火など)谷口英久氏のような東京農大などで専門知識を学んでいない、後継者とふれあう機会は貴重な経験だったという。
ちなみに将来の伴侶(宮崎県・I酒造場・幹子さん)とも出会う事が出来た。

交流の輪が広がる中で、尊敬すべき人物と出会った。

熊本県湯前町の球磨焼酎醸造元・豊永酒造の豊永史郎氏である。
この酒造と豊永氏については「焼酎盆地」のSASANABAさんが「ここは湯前山越しゃ日向」という素晴らしいレポートを書いておられるので、これを参照して頂きたい。

>「焼酎造りへの真摯な姿勢に感動した」「麹造りについて、豊永さんを非常に参考にしている」

と一喜さんは尊敬の念を隠さない。

豊永氏も20代後半で大阪からUターンし、一から老杜氏について学んだという経歴を持っている。そして一喜さんと同じように大学で酒造りの専門教育を受けていない。

麹造りをとことん追求する(どのような追求しているかは上記の焼酎盆地を参照して頂きたい)姿勢と、出来上がりに一喜さんは目を見張ったと言う。

何よりも自蔵と同じ手作業の麹作りという事に興味を持ち、その丁寧な仕事に目を見張った。

焼酎蔵は自動製麹機を用いているところが多い。(焼酎台帳)
昭和36年に、河内源一郎商店(鹿児島市)の山元正明氏が発明した焼酎用自動製麹機は、またたく間に南九州の焼酎蔵に広まった。もっとも人手と労力を費やす麹造りを自動化出来た事で、清酒蔵に比べ零細蔵が多かった焼酎蔵は少ない人数で、蔵を維持する事が出来た。また、安定した酒質にもなった。

その中で完全な手造り麹を作る蔵も少数ながら存在する。豊永氏もその一人だった。このページをもう一回見て頂きたい。妥協無き麹造りの様子が分かる。

藤本本店は、「蓋麹」を使った手造り麹である。豊永氏の姿勢、技術を見て、「一番の要」(一喜さん)の製麹に力を入れた。

そばに杜氏や、親がいれば「自然」に覚え、手順も覚えるかもしれないが、会う人、聞くもの全て勉強である。蔵に戻れば一人ゆえに必死である。
そして学習結果を、分析し、記録した。
酒の会などでお会いする事があるのだが、一喜氏の酒造りの情熱は際立っている。他の蔵元にも疑問点をぶつける。酒が入るとなおさらだ。嫌がられる事もあるらしいが(爆 

出来た酒は、前述のように宿里杜氏に毎年利いてもらうのである。無償でアドバイスに来てくれた事もあった。涙が出た。

■「こんな焼酎を造り、それを越えたい・・・」

>東京市場で売る事はやっぱり刺激になるね。常に競争している社会だからね。酒造メーカーの方も知恵を絞っているね。大小含めてね。
>他の蔵元さんと交流する事で勉強になった。これが一番だよ。宮崎の山奥にいたら感じられない刺激だよ
>ただ、東京市場が求めてくるのは、バリエーションを増やせ・・・・・原酒を出せ、ハナタレを出せ・・・・・・って事なんだけどね。これは俺は好きじゃない。
>刺激を受けつつ、自蔵のペースを崩さないのは大切な事だと思う。


出会いがあり、技術を磨いた焼酎は、東京市場でも扱う酒屋さんが増えて来た。
技術だけではなく、販売面でも色々な情報を得る事が出来た。
その中で、付き合いを始めた東京の一部の酒屋さんからは、バリエーションを増やす事を求められた。

日本酒に無ろ過、新酒系のブームがあったが、これが焼酎にまで影響した。黒木本店の「ハナタレ」の成功も拍車をかけた。無ろ過、ハナタレといった、新酒系、そして度数の高い原酒系などである

一喜さんは、一部の東京の酒屋さんの事情、消費者の嗜好の多様性を分かりつつも、バリエーションを増やす事をしなかった。丁寧に作った米麹の麦焼酎を5年寝かせるだけ。米焼酎はルーツの焼酎でもあり、試作品を少量を作って寝かせているという。
もちろん量を作れないという物理的理由はあるのだが、東京で受ける刺激を受けつつ、山隘の酒として矜持、マイペースを崩したくないという。

じっくり貯蔵したのを出荷するが、ただ長く寝かせればいいわけでは無いという。5年が一つの目安。穀類でもこれ以上引っ張ってもいい効果はそう出ないという。これは豊永氏も同意見らしいが「あくまでも我々の酒質では」という事を断っていた。

話がひと段落した。焼酎蔵に案内してもらった。

集落の入り口にある藤本本店の母屋から、北の集落に向かって歩く。
川を渡り、向かって左手の坂を上る。ちょっとした高台に蔵はあった。左手に小さな小屋があった、右手は昔の杜氏宿泊施設である。

蔵の中に入る。寝かせるための貯蔵タンクが何本か並ぶ。麹室は改装中だった(2002年5月現在)。前述の日之影町の福田酒造場も参考にしながら、麹を作る為に人が動きやすい構造にするという。蒸留器は非常に小さい。私が見た中では、四ツ谷酒造(大分県宇佐市)と双璧だった。

タンクから焼酎を汲んできてくれた。試作品の米焼酎である。2年?貯蔵という。その丸みは独特の個性があって、麦古酒に共通する独特の個性があった。
「どうですか?」と一喜さんが聞いてきたので、「美味しい」ちょっと荒い気もしたので、「あと少し寝かせてもいい・・・のでは?」(適当)という、偉そうな言葉を言って来たのだが(爆 一喜さんは「皆からもっと貯蔵しろと言われるんだよな・・・・」とひとりごちていた。
その焼酎は2年半後の2004年末に限定で発売された。

蔵を出て、また母屋に入った。
御母堂である、藤本鞠子さんが手造りの豆腐を出してくれた。純白の豆腐は、箸でつまむとガッシリとした抵抗を感じる。切り取るように豆腐をつまみ、それを醤油につけて食べた。うひょ(ry〜〜。どっしりとした歯ごたえに、大豆のエキスが濃縮されたような濃厚な風味・・・・・・

ああ、また七ツ山に行きたくなる・・・・・・。

やおら、一喜さんが床の間においてあった二升以上入るような陶器の大徳利を持ち出してきた。
前杜氏が作った米焼酎である。10年は経っているという。

>酸化してるんだけどね・・・・・。この焼酎は俺にとって特別なんだ。こんな焼酎を造りたいと思う。そして越えたいと思う

一杯、含ませてもらった。その清澄な液体は、張り詰めたような緊張感があった。古酒とは思えないような力があった。その古酒は喉で力を示した後、スイと消えた・・・・・。

その後は、酒談義ではなく、パチンコ談義、ニシタチ(宮崎市の飲み屋街、歓楽街)談義に終始してしまった(爆

部屋が薄暗くなってきた。気がついたら4時間(午後1時〜午後5時)たっていたのだ。そろそろお暇する事にする。ボーンと5時の鐘を打つ振り子時計の陰に山んワロが見えたような気がした。

■やっぱり最後に残る人は・・・・?

帰りに近所の七ツ山、宮の元集落の酒屋を覗いてみた。

見事なまでに、藤の露は無かった。おいてあるのは宮崎トップメーカーの芋焼酎2本と、鹿児島の甲類焼酎だけだった。
地元の根強いファンには配達しているとはいえ、ちょっと寂しさが残った。

>本当は地元の人達や、宮崎県内の人に飲んでもらいたい。やっぱり最後に残る人は地元の人だと思うしね。

一喜さんは、東京の話をした後、こんな事を呟いていたのだが・・・・。

以上 2002年5月時点での話である。

そして2005年1月現在まで。
藤本本店には、2年半強の間にこんな事があった。

○麹室の改築をした

○一喜さんが宮崎県のI酒造場の娘さんと結婚した

○空前の焼酎ブームが最高潮を迎え続けている

そして地元、諸塚村でも藤の露が動きはじめたという。

■『山里の酒』共著者 江口司先生からの便り(2005.02.12)

「けんじさん、焼酎好きの友人がこの板をよく覗いているらしく、諸塚村の藤の露のレポート教えてくれました。少し蛇足を紹介しますと、太兵衛翁は幼少より利発な方で、馬見原に奉公にでて、七ツ山で麹を中心に扱う仲買商を営まれたとのことでした。太兵衛翁の功績をたたえた開田記念碑の建つ恵後の崎では、前村長が病院を建設すべくその用地としたのですが、現代医学の従事者はだれもこの地で業務を行おうとはしなかったそうで、しかたなくその田の用地は老人ディケアセンターに姿を変えてしまいました。翁の功績が消えゆき、前村長の無念さがこの地を先日通ったとき思い起こしましたよ。私は諸塚村が大好きで、特に七ツ山には随分通いました。そのことは「上」で紹介していただいたように『暗河』という雑誌に「稗をめぐる冒険」という稲を選べなかった日本人の話を連載しました。古本屋で手に入ると思いますので読んでくだされば幸いです。諸塚に関しては『暗河47号1991年刊』です。『暗河(くらごう)』の同人そして編集者は前山さんです。」


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