【K05 萬年にエールを送る〜初代と風土に思いを馳せて
 初出 2004.06.19  転載 2004.06.21
----------------------------------------------------------------

■旭萬年・初代の故地〜伊方

「私は海の中で生れた 1901年1月28日 一枚の鱗にさう書いてあった
 伊予の西南の象の鼻のやうに突き出た半島の中ほどの伊方である」

 愛媛県伊方町出身のダダイスト詩人・高橋新吉が著書に書いた言葉である。

 私が伊方町を初めて訪れたのは2003年9月下旬、油照りの昼下がりだったか。讃岐うどんを食いまくるために(爆 松山で、別府から船で来る先輩と待ち合わせる前に車で寄ったのである。

 大分県佐賀関から「国道九四フェリーボート」に載って1時間、関さばで有名な「速吸の瀬戸」を横切り、四国の最東端・佐田岬半島の三崎町に着く。三崎町から車の「佐田岬メロディライン」で車の両窓に海を見ながら、小30分。確かに「海の中」とみかん山と段々畑に埋もれるような小さな漁村、伊方町に着いた。

 平日の昼は閑散としていて、魚を売り歩く老婆や、役所に行く車の他は静寂が包む。美しい漁村の風景の中に、原子力発電所の補助金で立てられた茶色の巨大な役場が厳然として立つ。美しい海と、山、漁村に奇妙な巨塔がぽつりと浮かぶ。

「旭萬年」を醸す、宮崎県宮崎郡田野町の渡邊酒造場初代・渡邊壽賀市は、佐田岬半島の付け根にある、伊予・愛媛県伊方町で生まれた。

 初代は、明治中期にアメリカに移民して林業、製材業に従事した。二十年アメリカに滞在し、苦労辛苦の末成功し、故郷に錦を飾ったという。
その後、宮崎県に遊んでいる時に鰐塚山系の森林に注目。山林と、売りに出ている焼酎醸造場を買取り移住し、1903年に創業した。現在に至る渡邊醸造場の基礎を築いたのである。

 旭萬年焼酎を愛飲する私は、伊方町を来て、初代を生んだこの地の風土と移住と渡邊酒造場について思った。

■美しく苦しかった南予の風土

 伊方町、または八幡浜、宇和郡の漁村風景は、背後まで山が迫り、「耕して天に至る」段々畑の風景と、みかん山の緑、収穫時の黄色に埋もれた美しい景色である。段々畑は一個一個石を積み上げ、水を引いて造りあげた美しい人工の美の極地である。緑の山を見慣れた宮崎人から見ると一つとして耕かされていない土地は無いのではないか・・・という驚きを感じる。

 この段々畑とみかん山の風景は、小さな漁村の苦闘の歴史でもあった。水田の無い土地で、山が迫る小さな耕作地は狭く、山に向かって耕すしかない。その耕作地は地味が弱く取れるものといえば、江戸後期から「からいも」(さつまいも)であった。

 伊方の畑にいた老人は「大豆や、とうきび、麦を畑の周囲や、作物のうねの間に植えて、昔は有効利用したもんや」と言う。

 人々は、からいもを粥や、雑穀と混ぜ主食として、豊富にとれるいわしを干して食いのばしたという。

 耕作地を限界まで山に伸ばした結果、自然環境が狂い、ネズミが異常発生して芋を食い荒らす事件もあった。

 これらの大昔の話では無い。この地域だけでなく、九州、東北中国の山間部、漁村部、どこでも同じような苦しさを体験していたであろう。伊方の巨塔のようなものや、田んぼに浮かんだ無駄使いホールが都会の人々を苛立たせるが、昭和30年代に入って、やっと米食が日本の隅々に行き渡った事を忘れてはいけない。都会と鄙には圧倒的な格差があった。

 このような風土の中で、「他国」に行って成功したい、と思うものが明治期から大勢いた。

■他国に雄飛する伊予人たち

「日向行きの人は昔は結構おった。昔は「死を覚悟する」っていう程、大げさな気持ちで、絶対成功すると願っていったらしいわ」

と伊方の古老は言った。

 明治期、限られた土地しかない農家の二男、三男は他の土地で商売する事を望んだ。又は農閑期、冬の大風が吹くと「伊方杜氏」という酒造りの技術者となり、四国一円、九州の東海岸、中国地方に出かけた。面白いのは、確かに移民の主体は前記のような人達だが、土地の有力者、網元などが率先して移民団を造ったという事もあったという。

 私が居住する宮崎県にも大量に愛媛からの移民が来た。愛媛移民から見たら、耕されていない原野が広がり、商業的にも発展していない日向の地は魅力的に見えたであろう。また、大分、近代工業が勃興していた北九州地方にも船を使って彼らが来た。

 彼らは働きものだった。宮崎県で「愛媛県人」といえば「働き者」「商売人」の代名詞となってる。裸一貫で他国に行った彼らは徒手空拳で働きまくった。

 一例として、別府温泉「地」を事実上造った「油屋熊八」は愛媛県宇和島市の出身であるが、日清戦争時、大阪の米相場に進出。「油屋将軍」と言われる程の豪胆な精神力と、的確な判断を見せたが、後惨敗、アメリカに亡命さながらに逃げ、、3年の労働の末帰国。浮沈の人生の中で最後に来た別府温泉で「亀の井グループ」を設立し成功した話は有名である。
(詳しくはこのWEBサイトで)

 油屋熊八の経歴の中で特異なのはアメリカ行きであるが、実は最初のアメリカ移民は愛媛県人であったのである。

 最初のアメリカ日本人移民、西井久八は安政2年八幡浜市に生まれた。明治12年ついに米国オレゴン州ポートランドに上陸。日本人未到の地で懸命に働き、シアトル更にタコマと日本初の「スター洋食店」を開く。更に農場経営その他数々の事業に成功、一躍大実業家となり巨利を得た。

 大成功者となった久八は明治22年、妻を迎えるために帰国。近郷近在の若者達に米国の素晴らしさを説き数名を同行して帰った。久八の成功談は宇和郡、愛媛県中に広がり若者達の夢を盛り上げ、久八を頼り「私には西井さんという知り合いがいます」と激増したという。

■萬年初代・壽賀市のアメリカ行

 このような移民熱風が吹き荒れた時代に、渡邊壽賀市は成人した。

 この地方の成功者である西井久八を実際見たのか、その成功話を聞いたのか、この地方の多くの若者と同じように、彼もアメリカに向かった。久八が築いた信用の故か、アメリカ人は「真面目な日本人労働者」を欲していた時代だった。

 彼が渡った、オレゴン州ポートランドは西井の成功の地でもあり、また豊富な森林がある地であった。ここからは渡邊家にも伝聞が残っていないが、彼はこの地で製材、林業関係の労働に従事してノウハウを学んだようだ。

 20年間を必死で労働して、相応の資金も得た時は、アメリカは大陸横断鉄道の完成を見るや失業者が急増し、「白人文明の危機」と叫ぶ日本人排斥運動が広がり、明治41年「日米移民紳士協約」が成立して渡航困難となった時代でもあった。

 彼は帰国した。20年間のノウハウと資金を日本国内のどこかで生かしてやろうと思っての帰国であったし、愛媛県移民の成功者として錦を飾る帰国でもあっただろう。

 先に述べたように、宮崎県は愛媛県移民の多い土地であったので彼の親戚が居住していたという。その親戚の家に遊びに行き、物見遊山観光をしていた途中に、田野郷に通りかかり、この地の山林に大いなる魅力を感じ、山を購入し、また売りに出されていた焼酎醸造場を購入し、ここに定住し、林業、醸造業を始めたという。

■萬年の未来

 初代の創業から、現在の渡邊酒造場に思いを馳せてみる。

 波乱万丈の生涯を送った初代・壽賀一が、最後にたどり着いた田野町の地で創業したこの酒造場は、始まって直ぐに隣家の火災で醸造場が焼き尽くされたり、二代目に親戚で伊方杜氏の渡邊一男さんを迎えたが太平洋戦争に出征し、その二代目の代わりに奥さんが代表になったり・・・・と、激変を乗り越えていた。

しかし、21世紀に入ると、大手の攻勢で、ついに蔵を閉める瀬戸際まで追い込まれた。(宮崎日日新聞・萬年の挑戦参照)

 ここで決断をした。
 上記新聞記事にも書かれていたように、三代目友美社長の承諾を得た四代目渡邊幸一朗専務は、宮崎市場から東京市場に商品を売り出す事にしたのである。初代が夢を求めて遙かアメリカに向かったように、初代から続く愛媛県独特のフロンティア精神DNAは、外(東京)の市場へと飛び出す事を選択したのである。

 そして紆余曲折の結果、「酒のこばやし」の小林昭二氏と出会い、この空前の「芋焼酎ブーム」の航海に出た。またかねてからこの焼酎の良さを認識していた横浜焼酎委員会の理事・井出氏が、首都圏の焼酎愛好家や雑誌編集者などに広めた事も推進力となり、渡邊酒造場の危急存亡の秋は救われた。

 四代目は、未開の地の東京に打って出て萬年を広める事に成功した。そして応援してくれる人を得た。私はその中途の苦労を多少知っているだけに、現在様々なメディアで見る萬年を見ると、感慨深いものがある。

 そして、東京市場という巨大なフロンティアを目指して、「品質」「個性」「誠意」で乗り込んだ四代目専務に、私はやはり愛媛県人の偉業「北針」を重ねてしまうのである。

 この偉業は、渡邊酒造場が創業した1年前の1902年に起こった。当時は先に述べたように、移民制限の頃であった。

 八幡浜市の15人の若者が、打瀬船と呼ばれる小さな漁業用の船に乗って、アメリカに密航したのである。彼らは長さ約15メートル、重さ50トンの帆船に乗り、北針と呼ばれる木枠の磁石という原始的な羅針盤を頼りに、伊豆大島から海流に乗って、危険な航海に出た。幾度となく暴風雨に見舞われ、沈没の危機にさらされた。

 しかし苦境を乗り越えた一行は58日目、ついにアメリカ、サンフランシスコ北のアレナ海岸に到着する。距離にして1万1000キロの航海であった。彼らは、3日後には無念にも密航者として強制送還されてしまうのだが、この壮挙を聞いたアメリカ、日本両国民は感嘆したし、また、同じような航海でアメリカを目指す若者も少なからず出たという。

 焼酎ブーム、巨大市場に乗り込む四代目の前にも、太平洋の大波より荒い、焼酎ブームという大波が吹き荒れていた。これからも成功も、落とし穴や誘惑、そしてブームが終わった後の対策もあるだろう。

 先を思うと、その四代目も眠れぬ夜があるという。

 しかし初代から続く愛媛人独特のフロンティアスピリッツと、初代から受け続けられた「北針」である「品質、個性、誠意」がある。これからも四代目、社長、ご健在の二代目とご家族で、さらに新たな萬年の地平を切り開いていく事だろう。期待したい。



石原けんじ大佐先生 焼酎論集 TOP 

九州焼酎探検隊TOP  『しょちくれケンちゃん』