【K03 山の頂きの蔵へ〜園の露・川崎醸造場】
 初出 2002.03.05  転載 2004.06.02
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 俳人・山頭火が「分け入っても分け入っても青い山」と詠んだ九州山地。ぞの急峻な山地に抱かれた村が諸塚村である。村に沿って流れる耳川は絶壁を伴う深い谷間を作り、山と谷の間の傾斜地に人がへばりついて住む。

 この山村で「園の露」という米焼酎が生まれる。

 園の露製造元・川崎醸造場は、村の中心部から数キロ登った海抜430mの山の九合目にある。生産量はわずかに50石。いまだ焼酎製造工程の大部分を手造りで造っている。

 『山里の酒』を書いた、前山光則氏がこよなく愛すこの焼酎の個性に惹きつけられた人は数多い。私もその一人である。

 その個性は何処からくるのか・・・馥郁とした香りに惹かれ、諸塚村に愛車を駆った。

■「焼酎原料境界線」に立つ蔵

 2002年3月2日土曜日、9時。宮崎市から北に車を走らせる。午後10時半頃に日向市に入った。市中心部、そして宮崎県北に入るためには耳川を渡らなければならない。

 向かう諸塚村や、上流の椎葉、川沿いの入郷地区は江戸時代からシイタケ、木材、日向備長炭で生業を立ててきた。その物資を耳川の水運で下流に運び、その河口には、神武天皇のお船出伝説がある、美々津港がある。往時には美々津千軒といわれて賑わったこの地から関西、大阪方面に日向の山の物資が運ばれた。

 耳川は「焼酎原料境界線」でもある。

 この川から南は芋、北は雑穀が卓越する。飲用も原料に準じ、南は芋焼酎、北は雑穀、甲類、日本酒が主流である。

 10時ごろ、車は市内中心部に入った。市内の焼酎看板を確認する。県内大メーカーの看板も多いが、広島のメーカーの甲類焼酎の看板も散見される。焼酎圏が変わったのである。

 市の中心部は富高という。ここは江戸時代に日田代官天領出張所が置かれた場所である。日向諸藩の外様大名を見張り、江戸幕府が最も警戒する藩である、薩摩島津の動静を探る拠点であった。現在もその影響があるのか、薩摩が誇る焼酎原料「芋」もこの辺りでは影が薄くなる。

 車は日向大橋を渡り、中心部手前で椎葉、熊本方面に抜ける国道へ左折する。この道は戦前は住友財閥、戦後はダム工事で整備された道である。上流の椎葉、諸塚に作られたダム工事における人の交流は、山村の焼酎屋、川崎醸造場にも大きな影響与えている。

 日向市を抜け東郷町に入る。酒仙歌人・若山牧水の生誕地である。
 牧水は酒の歌で有名だが、実家ではどんな酒を飲んでたのかは興味深い所である。先ずは日本酒であろう。当時は東郷町をはじめ、宮崎県北には日本酒蔵が結構あった。その次は焼酎である。球磨焼酎と考えられている。実家は医者であった。消毒用に(きもく・生無垢?)と呼ばれる度の強い原酒がカメごと置かれていた。

 牧水は「焼酎に蜂蜜を混すれば旨い酒となる、酒となる、春の外光」と詠っているが、戦前、この辺で農民が飲む雑穀焼酎に蜂蜜を添加して飲むのは普通の習慣であった。母親は、「泡盛、焼酎のたぐい」を相当量嗜む人物であったらしいが、彼女のこのようにして飲んだのであろう。

 ちなみに「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ」という有名な歌の酒も球磨焼酎のことを歌っているといわれる。球磨から東郷に焼酎運んでくるまでの街道筋に、球磨焼酎と同じ米製の「園の露」を造る川崎酒造場は佇む。

 ひたすら川の上流へ車を飛ばす。トンネルをいくつ越したか・・・・・・日向から1時間ばかり走ったころ、諸塚村の中心地、塚原地区に着いた。

 ふと、「川崎酒店」という名前を見つけた。店内に入ると「霧島」「園の露」が仲良く並んでいる。むしろ「園の露」が申し訳程度に並んでいた。

 ここは「園の露」川崎醸造場の当主・黒木秀子さんの弟であり、杜氏である川崎一志さんが経営されておられる酒屋さんである。ご主人がおられなかったので、一路川崎醸造場がある家代地区に向かった。

 役場、学校を過ぎ、日之影方面に向かう峠道の入り口で山道に入る。細い九十九折道を、車が喘ぎながら登っていく。初めて来た人は「こんな山の上に焼酎の蔵があるのか」と確実に驚く秘境である。

 登っていくと茶畑が密集している山の上に、40軒ほどの集落があった。ここが家代集落である。この集落は江戸時代に代官所が置かれ、大正、昭和初期まで役場も設置された、諸塚村の中心であった。何故山の上に中心があるのか。宮本常一が唱えていたように、昔は山の稜線が街道だったからと言われている。戦前までは馬を引いた駄賃付けさんが肥後、延岡方面に炭を売り、塩、生活用品、そして球磨焼酎も運んでいたといわれる。

 集落でもさらに高台に蔵はあった。蔵といってもデカイ煙突もないので、普通の家と変わらない。P箱が家の前に積んであり辛うじて焼酎蔵とわかる。約束の時間12時を少々過ぎていた。少々恐縮しながら、蔵の玄関を開けた。

■姉弟で今も守る手造りの仕込み

 蔵に入ると、この蔵を守る杜氏・黒木秀子さんがにこやかに迎えてくれた。弟さんで、代表であり、小売店・川崎酒造の店主でもある川崎一志さんもラベル張りの手を休めて応対して頂いた。

 ちなみにラベル作業をしていた所は台所のテーブル。

 早速、川崎さんの案内で蔵内を見学させて貰う。蔵は玄関から入って居間を飛び越えた所にある。先ず目についたのは米を蒸す木製の甑。ボイラー炊きだが数年前まで薪を燃やして蒸していたらしい。

 「ボイラーの前は燃やす薪の確保が大変でした。自分のうちの山からの調達じゃ間に合わんごつなってですよ。今は楽ですわ〜」

 向かって右手に『山里の酒』『九州の峠』で前山光則氏が触れられていた、小さい木樽蒸留器がある。使いこまれて黒光りしている樽から、山里の民の労働を癒す「露」が出る。左奥にはカメも並んでいる。一次仕込みの小さいカメが九個ほど、大きいカメが三個ある。

 「小さいカメは、さあ、何年前からあるとですかね・・・・100年前の創業やから、それくらいからあっとでしょうね。以前来た多治見のカメ業者が何でも鑑定団に出せば高く売れるって言っちょったわ(笑)二次仕込みの大きいカメは東郷の牧水さんが廃業する時もらったですわ」

 説明が続く。

 「カメの横にあるのが酒粕ですわ。延岡の千徳酒造の吟醸粕を使こうちょっとですよ。酒粕は業務用冷蔵庫で保管します」
 「二次仕込みの時に酒かすをかけます。独特の造りで、鑑定官の先生も例が無い、言うちょったですわ」

 蔵の中枢である麹室へ入るのに引戸の木戸を開ける。向かって左に台がある。台の上に藁、その上に布が敷いてありそこで米を揉む。もろ蓋が右手にある。

 清酒蔵、焼酎蔵を問わず蓋は積み重なって置いてある事が多いが、この蔵では仕込みの時の「積み替え」を行わず、竹の棚にもろ蓋を置き、空気が通りやすいようにしてある。蓋の積み替え作業はしないようだ。

 通常焼酎の麹は2日が普通だが、ここは3日麹を引っ張る。4日目にカメにいれる。このカメに麹と水と酵母を投入する。一次もろみである。このもろみに酒粕をかけて発酵させる。そして木樽蒸留器で焼酎を沸かす。

 沸かして出てきた原酒は小さなホーロータンクで1年保存して、直ぐ横の山から湧き出た清水で割り水して出荷される。

 蔵を一通り見た後、居間に通された。当主の黒木秀子さんが、「ふつだご」と云う草団子と、胡瓜を梅酢につけた漬物と、そして自家栽培のお茶を振舞ってくれた。

 「車で来んければ焼酎をだしたけどね(笑)」と秀子さん。

団子の甘く、ほろ苦く、しっかりとした食べ応えのある食感を楽しむながら、爽やかな風味のお茶を飲む。

■山里の蔵と焼酎の歴史を聞く

 お二人に話を聞いた。

〜創業はいつですか

 「明治28年やから、100年くらい前ですね。創業者はひいじいさんの近治さん。焼酎造る前は郵便配達をしちょったらしいよ(笑)蚕とか林業とか・・紙すきもしちょったねえ・・・・・・今でも80以上の爺さんはこん蔵の事を「紙すき場」って言うとよ(笑)」

「戦争中はこの辺りの沖縄の疎開の子供が来てたね。この前久しぶりに来て、「紙すき場がある」て懐かしんでたね」

〜銘柄の由来は?

 「近治さんの奥さんが「おソノ」さんやったと。だから園の露。単純やね。こん奥さんが強くてね。近治さんが同業者の寄り合いで負けて帰ってきたら、白装束をつけて仕返しに行ったらしいよ(笑)」

〜同業者はこの辺は多かったんですか?

 「うんあったよ。昔は日本酒の蔵が1件焼酎屋が2軒この集落にあった。今の千徳(宮崎唯一の日本酒専業蔵)の田丸社長はその焼酎蔵「誉」の息子さん。30年以上前に東郷に蔵を移してね・・・そのあと蔵が延岡の蔵と合併したんかな。じゃから吟醸粕も田丸さんの所からもらっちょっとよ」

 「戦後の食料難の時はそれこそ芋やら粟やらでつくっちょったけど、基本的には米と米糠で作ってったちゃないか。今は米と酒粕だけだけど」

 「そう、昔は米糠も使ってたけど、途中から・・・・と父が酒粕に変えね・・・・・・昭和40年ぐらいだったかな、米は延岡市の佐藤焼酎酒造場さんと国産米を共同購入してます。国産米は高いからですねえ。水は井戸水ですよ」

〜創業者の近治さんは人吉に行って焼酎つくりを修行してきたらしいですね。

 「昔は所属する酒造組合が高千穂にあったとよ。その関係じゃないかねー。なんか人吉の山のふもとにある所じゃったげなが」

 「何処で修行したか分からんとよねー。じいちゃんに聞いとけば良かった。とにかく山の麓にの蔵に泊まって修行したらしいよ」

〜酒粕をかけるのが園の露の特徴ですね

 「風味が良くなると、さっき言ったけど、それまでは米糠を使ってたね。一種の増量用の原料やね・・・・・・昭和30年代からダム工事が始まったやろ。それまでは全量米やったと思うっちゃけど、量を出さんといかんわ。米と米糠だけやったら直ぐ出荷できないとよ。それで米糠の代わりに、酒粕を入れたら比較的早めにまろやかになるから、お父さんが考えたと思うわ」

 「ダムが出来て働く人が増えたとよ。そん時は1万人くらい村ん人口が増えて焼酎の量が逼迫したから、東郷の牧水さん(廃業)の所から酒を買わんと間に合わん程じゃったね」

 「ダム工事で交通が良くなったり人が入ってきて、ほかの焼酎が入ってきたのもあったね・・・・・」

〜どんな焼酎が?

 「昭和20年代ころから、日南の銀滴(芋焼酎)が入って来たね。これは九州電力の人が常駐するようになってからじゃないかね。その後は甲類の宝焼酎が一気に入ってきた。昭和50年から60年にかけてはコマーシャルの影響かねー。霧島さんが入ってきやったね。今は霧島飲む人も多いね・・・・」

 「幸い地元ん人は園の露を飲んでくれるから、細々とやって行く事が出来る。やっぱり川崎さんの所の焼酎っていってくれる人がおるからね。ただ3年前くらいはもうやめようか・・・って話してたけどね・・・税もきつくなるし、粕の廃棄問題もあったしね。3年くらい前に東郷の牧水さんが廃業されたでしょ。あれは悲しかった・・・でもその時やったかな。村の役場の人が「お願いですから続けて下さい」って言ってきてくれてね・・もう一頑張りしようか・・と思ってるとよ」

〜販路は集落、村が中心ですか?

 「周辺の人と、諸塚村と宮崎に一部だしちょるね。3年くらい宮崎の日高酒店さんが、横浜の君嶋屋さんを連れて来てね、今は札幌にもだしちょる。熊本と水俣の人も熱心にきてくれちょね」

 「地元は盆、正月の掛売りが昔はあったね。今でも少しやけど続いてるとよ、これが大変でね〜(笑)。最近は随分無くなってきたけどね」

 「今まで古酒は全く作ってなかったちゃけど・・・今度酒屋さんが企画してくれて30度の3年古酒をだすとですよ。はじめて自分の酒を寝かせてみたけど・・・旨いもんやね」

〜試飲したいです(笑)

「どうぞ飲んで下さい、車運転してるから少しね・・・円やかになってるでしょ」

〜凄く旨い(笑)ここ最近口コミでこの焼酎の旨さが県外に広まってますね

 「有難いですね。ところで本当に県外の人が旨いと飲んでくれてるんですか?分からんからですね(笑)本当に嬉しいです。地元は人が少なくなってるし、外に売るしか方法がないからですね。県外で売れたら嬉しいですね。まあ、でも地元の人が今の所飲んでくれてるんで・・細々とやって行けますけどね」

■「こんな蔵で・・・恥ずかしい」

 話は尽きない。黒木さんは「しきりにこんな蔵で・・・恥ずかしいです」と言われる。私が「木樽蒸留、かめ仕込みは都会ではこだわり焼酎の代名詞のようになっているんですよ」と言うと「本当なんですか、家の施設は古いからですね」と言われる・・・・。

 14時。2時間も話し込んでしまった。お暇させて頂くことにする。雨がパラついている。車に行こうとすると川崎さんが「濡れますよ」と言って、傘を駐車場まで差しかけてくれた。

 車を宮崎方面に走らせる。山からおりた時は薄日が差していた。

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 宮崎に帰って、頂いた園の露をお湯割りで飲んだ。

 100年の焼酎を深ぶかと味わったら、涙が出てしまった。



※参考資料
●「九州背稜山地の蔵」http://www.linkclub.or.jp/~amana/2/miyazaki-introduction.html
●「宮崎縦走蔵見学」http://www.h3.dion.ne.jp/~idepon/tanbou/miyazakijuso2.html
●「園の露25度」http://www1.bbiq.jp/monjirou/top/syouchutop/sononotuyu/sononotuyu25.htm
●「山上の蔵 園の露さん」http://beefheart.sakura.ne.jp/tankentai/miya0212/sono/sono.html




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