夕闇迫る勝本港の全景。画像左奧の岸壁に旧原田酒造があった。
2003.04.20 by 陳牛

■「ちょっと、自分の実家を覗いてみません?」と原田氏。

さて、一献参りますか!とわてが調子よく叫んだのが午後5時半。さすがに壱岐内の土地勘はサッパリであるからして、原田氏に店の手配をお願いした。まぁ、移動も含めて15分もあれば壱岐麦焼酎をドップリと浴びれるにゃ、Oh!\(^0^)/、と踏んでいた。ところが、

原田「席空いてます? ふたり・・・はい。では、6時半くらいに入ります」

と来たではないか? おろ、そげん遠いところに店があるっちゃろか?(@_@;)。そしたら、

原田「良かったら、僕の実家に行ってみませんか。いろいろと面白いものもありますから、ぜひ見ていって下さい」

原田氏のご実家とは先にも触れた旧原田酒造である。一も二もなくお邪魔することに。

蔵から車で10分ほど、壱岐の北部にある勝本町へと向かふ。

原田氏のご実家は、勝本港を目の前にした海岸ベタにあった。漁師町ならではの長閑な風景が広がる。旧原田酒造はここに明治21年から昭和59年までの間、醸造を行っていた。同社の沿革については、原田氏のHPに詳しい。

往時の主力銘柄は、清酒は『蔦之壽』、そして焼酎は『大正』だった。昭和に入って、焼酎は『酔心地』に名称を変更。『酔心地』は昭和50年から59年の協業化直前まで、優等賞を実に8回も受賞している。優良蔵である。

しかし、協業化に伴い醸造は中止。現在は酒類の販売のみを行っている。

■かつての蔵の面影が、そこかしこに・・・。

原田氏のご実家の前に立ってみた。すでに外観に蔵らしい面影はなひ。

画像左側にある建物は、仕込みの桶や甕が埋め込まれていた蔵だったらしいが、現在は駐車場になっているようだ。

中に入ると、やはり蔵だったなというのがよく解る。この梁の太さ、そして剥落はしているが、白壁に歴史を見る。

明治21年の創業当時のままという。

1階から2階へと登ってみる。階段は虫食いの跡も凄く、踏むと壊れそうだ(>_<)。最近体重が増えてデブったっちゃねぇ〜。ミシミシと軋むが、なんとか登り切った(~Q~;)

そこにはかつて仕込みで使われていた道具類が押し込まれていた。木桶などがたくさん並んでいる。昭和20年代の物から、古くは昭和5年3月に新調されたというものまで。昭和59年以来、ひっそりとここで時を過ごしていたのだらふ。

協業化以前に、壱岐で行われていた麦焼酎づくりを今に甦らせてくれる品々である。

原田氏は、埃を厚く被った暖気樽を壁掛けから取り出して、しみじみと眺めていた。

同氏がまだ幼かった頃にも、それは使われていたかも知れない。

初代・原田卯八郎以来、連綿と続いた同蔵の歴史を、当代の原田知征氏が手に取って感触を確かめている。なんだかしみじみ。

下画像は、同じく2階にあったアルミ製(?)の暖気樽だ。

陶器といい、金属といい、各時代で色んな素材が使われていたようで、面白い。

甕壷は、蔵のところどころに残っていた。そのほとんどが物置の台になったり・・・。

アンティーク屋なんかが喜びそうである。今のご時世から言えば、「あらまぁ、もったいないにゃ〜(T_T)」ぬぅあんて意見が聞こえそう。

とは言え、現実はキビシイ。

原田家のご家族、その生活の場である母屋となりに昔の検査室が残っていた。ここもほとんど物置状態だが、簡易蒸留実験の機械があったりして、よくもここまで貴重な文物を遺されていたものだと、感心する。

甕壷や桶類といい、やはり捨てるに捨てられぬ心情があるのだろうか・・・。

ちょうど中庭に入ると、夕日が逆光となって、古い煉瓦造りの煙突のシルエットが映える。この煙突は赤煉瓦づくりで、かつてはもっと背丈が高かったといふ。残念なことに、台風で先端が折れてしまったそうだ。

でも、今でも蔵の象徴である煙突が屹立しているとは、嬉しい話である。

■初めて見た!素晴らしい遺物との遭遇(@_@;)

さて今回、わてにとって最大の、貴重な遺物との遭遇となったのは、下記画像にあるプレートである。初めてだ、こういうブツは(@_@;) 素晴らしい!実に素晴らしい!!

多分、大東亜戦争当時のものではないかと踏んでいるが、旧字体の漢字といい、標語の文体といい、いかにも“焼酎産業報国”の臭いがプンプンと漂ってくるのだっ。

「緊縮對策 能率増進に勉めませう」・・・大時代的な標語の数々は現在では笑止千万・・と言いたいところだが、どっこい不老不死を誇っている。まさに時を超えて燦然と輝く、焼酎マニア垂涎のアイテムだと、わては宣言したい!

一番持って帰りたかったのが、右の一枚である。「緊縮對策 働く者に苦悩なし」とは、これまたわてに最適な標語である。働きすぎて、苦悩する間もないのだから(嘘)。

さらに奥の院を覗かせていただいた。上画像右はかつての麹室。現在では使われることもなく、物置となっていた。同じく左は土蔵。原田家の格式高さが伺われる。

これまでの画像の流れは、裏口から玄関に向かって逆に進行した形となっている。ちょうど酒販店となっている表玄関の向かいが上記の土蔵。

というわけで、表玄関を眺めていると、大きな額が軒先に掛かっていた。墨痕鮮やかな「蔦之壽醸造元」という文字。原田酒造の歴史の長さを感じさせてくれる品のひとつだ。

店先で、額や「原田酒造有限会社」と記された看板をしみじみと見ていたら、原田氏のお祖母さんがやって来られた。

遠路はるばる・・・とご挨拶を頂戴して、お茶と焼酎と“ナニ”をご馳走になったのだが、それについてはまた後日。

お祖母さんから、ご自身の兄弟が九州帝国大学を卒業して色んな活躍をしたというお話を伺ふ。内容と共に、極めて上品な口調である。蔵元さんは、やはり地域の分限者、名士だなと今さらながら関心していた。

ところが、廃業された蔵跡を見て感傷的になっていたわてに、お祖母さんはこう語り出されたのである。

「昭和59年に協業組合になって造りは止めましたけど。ほんとにですね、協業化になって良かったと思います。ここで造りをやっていた頃は、忙しくて手間が掛かって、大変だったんですから。私はそんなこととは知らずに嫁に来たんです。来た当初は驚きました・・・。今ではもうそんなこともありません。ゆっくりと生活できるようになって、ほっとしています」

櫂入れもへっぴり腰のわてには、グーの音も出なかったσ(*^^*)

◇   ◇   ◇

先代、先々代、先々々代・・・が積み重ねてきた汗。そして当代・原田知征氏がその上に重ねるであらふ、現代ならではのまたひと味違った汗。さて、その汗は、どんな味がするのだらふか?

島に夜の闇が迫ってきた。いよいよ飲み喰らう時間へと突入である・・・。


おら、壱岐さ行っただTOP / 九州焼酎探検隊TOP