2002.06.10 by ホッピー命@猛牛

■やっと再会できた、垂涎のホッピーグラス(T_T)

最近『ホッピー』についての稿をアップしたのだが、それ以来どーにもこーにもホッピーが気になって、気になってしゃーなくなってしまったんである。

どーしてもホッピーとそのグラスが欲しくて、その稿でご紹介した佐賀県唐津市の大型鮮魚市場の横に併設されていた八百屋さんへと向かってみた。前回、買い逃した場所である。

もしかして、またホッピー本体とグラスが棚に並んでいるのではないか? わての目の前にあの可愛い書体のグラスちゃんがにっこりと微笑んでくれるのではないか?・・・と、淡くかつ虫のいい期待を胸に、唐津へと急いだんである。

「見かけたときには万難を排しても買う」というのがコレクター道の極意である。わても音楽ネタではガキの頃からコレクターもどきであったが故に、腹に刻み込んだ鉄則としてそれを忘れてはならんのであったが・・・う・・・愚か者ぬぅなのであった。

◇   ◇   ◇

数カ月ぶりにその八百屋の店先に立つ。じっくりと店内を偵察する。あの愛しいホッピーとグラスの姿はぬぅあい(T_T)。やっぱりダメだったか・・・。嗚呼、君の名は「ホッピー」。

またもすれ違いかと、肩が地べたに落っこちそうな心境で表へ出ようとする・・・と、ふと蜂蜜の瓶がドンと中に並べてある冷蔵ケースの棚板に視線が行く・・・おろ? チューハイ用のでかいガラスコップにその店の1色刷りチラシが束になって差し込んである・・・よくよく見ると・・・ガラスに白文字・・・

■大衆の王道楽土を体現する聖杯・・・価弐百圓なり!

神は我を見放し給うことは無かったのだっ! ぬぅあんたる神の恩寵であろふ(感涙)。

結局九州北部ではホッピーの真価を理解する者無きが故に、哀れ店頭から去ったホッピーであったが、同店の販促物収蔵器という世を忍ぶ仮の姿でその命脈を保っていたのである。そして、わての目に止まり、わての手に渡ることにより、聖杯としての本来の役割に立ち返って使命を果たす、その日がついにやってきたのであった。

これほどまでに運命の織りなす数奇な巡り合わせ、邂逅は、そふそふあるまひ。

猛牛:つかぬ事を伺うが、この杯をお譲りいただけぬか?
八百屋のおばちゃん:ああ、ホッピーのコップね? いいよ! 200円ね
猛牛:(内心ニンマリ)ほぉ〜、それは結構な値であるな。しかしてこの一個だけ?
八百屋のおばちゃん:えーと、ね!女将さん、あと5個くらい残ってたよねぇ?

(しばらく奧で女将さんが探すが、なかなか見つからない)

猛牛:(内心ドギマギ)拙者はそう慌ててはおりませぬぞ。後で構いませぬ。
八百屋のおばちゃん:良かったら、電話番号書いといてくださいよ。後で連絡すっから。

“聖杯奉戴”というシーンにしては、あまりにも素っ気ない話だが、しかしそれこそがホッピーには似つかわしいことなのである。

甲類焼酎を注ぐ際の☆型目盛
値段200円という価格。うれし泣きの値段。それでいいのだぁ〜。

そしてなによりも、このグラスの形状・デザイン・容量、そしてロゴに象徴される全体のムードこそが、“大衆のための大衆酒器の王道”と断言したくなるチープさとアーティスティックな感覚に溢れておる。かわいく美しい。

帰り道、わては店頭で埃まみれになったこのグラスを胸に抱き、よしよしよし・・・と撫でつづけていたのだった。まるでそれは小栗判官を助けた遊行上人の心境の如くに。ん〜〜ん、貴種流離譚だなや。

■裏の裏は、表か?

さて、このホッピーグラス、本場である関東においてはまったく価値もヘッタクレも無い品ではないかと思われる。

何故なら、敗戦後以来ホッピーが置かれていた立場は、ビールのキッチュであり、またろーどー者やおやぢ達の飲み物であり、カロリーが少ないからとOL・美女諸嬢の御用達に突然なったりはしても、やはり負性を背負わされた存在であることに変わりは無いと聞くからである。

ホッピーを称揚するのは味はもちろんとして、その負性にも惹かれるわてである。わてにとってはキッチュだからこそ何物にも代え難く、また当地に根付いた文化だからこそ極めて貴い、のだ。

筑前ではまったくホッピー文化が根付いていないために(いや、天神に一店だけ、ホッピーを飲ませる角打ちがあるが)、品そのものが幻であり希少となっている。そのため「垂涎」の対象と見なしてしまう、わての様なカバも排出するわけだ(自爆)。

わては葦原将軍的自信を持って、声を大にして言いたい。

ホッピーは関東焼酎文化の華である。


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