2001.09.09 by 千利牛

戦国期の茶道の大家連が発見した美に『侘び・寂び』がある。例えば“南蛮”と称された現在のベトナムやタイで生産された茶碗や皿。現地では生活雑器として使われたものが当時の日本に持ち込まれて、それを手にした茶人が、“枯れた美しさ”をそこに発見して茶道具として珍重した。

現在では日本の美意識の精髄のように言われている『侘び・寂び』だが、しかしながら単に『侘び・寂び』それのみを取り出して云々しては、イカンと思うんである。

茶人に『侘び・寂び』意識を催させた作用として、“奢多”“過差”と批判され“婆裟羅”と称された戦国大名の度はずれた、ある意味下司な規範逸脱の美の世界が拮抗しており、それとの軋轢こそが、“枯れた美しさ”の美学を生んだと、浅学ながらわては考えておるのである。

秀吉のキンキラキンの成り上がり者趣味に対しての、利休の『侘び・寂び』・・・。

当時のドラッグ・パーティとも言うべき大名達の『闘茶』があり、その極北に「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」という禅の公案ではないが“修道的喫茶”の世界が探究されたのではないだろうか。

なにごとも作用と反作用が織りなす軋轢と解決のドラマがあり、その上に時代と人間の営みは生成されている、それは本格焼酎の世界でも同様、ぬぅあんである。


というわけで、格調高い口上に続いてご紹介するのは、あの黒木本店さんの有名作『爆弾ハナタレ』である。

わては常々黒木さんのパッケージデザインの数々には、ほとほと感心し圧倒されている口なのであるが、中でもこの『爆弾ハナタレ』はパッケージングの最高傑作だと思っているほど、完成度が高い作品なのら。

箱、包装紙、ラベル、栞、コルクの栓、封緘紙、そして瓶そのものの形状と透明度の高さ・・・。それぞれのアイテムが持つデザイニングの質は極めて高く、そしてトータルな美しさもツッコミの余地がない程に素晴らしいものだ。

上手い・・・上手い・・・美しいぃ〜〜、とわては見る度に、毎度溜め息である。

◇    ◇    ◇

とはいっても、この瓶に対して“『侘び・寂び』を感じさせる枯れた美しさ”などと思ってはオ〜〜間違いなんである。

黒木さんの商品の全てに言えることだが、同店が創造するパッケージや瓶から感じるのは“逆説的な奢多・過差・婆裟羅の美”であり、蔵元自ら宣うように“悪党”としての美学が貫かれた作品だと思う。

わてにとって、焼酎にぶつかっては焼酎をかっ喰らい、肴にぶつかっては肴をかっ喰らう『焼酎の大衆的侘び・寂び』の美を見せている作品とは、『伊佐美』『月の中(丸い月の円が描かれているもの)』『朝日』『伊佐錦』『薩摩茶屋』などのラベルである。一見過剰なデコラティブさは作為的に見えながら、実は土着性と生活感が滲み出したものだ。

逆に人為的に、土着性と生活感からの“規範逸脱の美の世界”を構築したのが黒木さんの商品群であり、その代表がこの『爆弾ハナタレ』だと思ふ。素材感ある紙質のラベルの上に印刷されたシンプルな書体やレイアウトに、『侘び・寂び』をイメージするのはまさに思うツボなのだ。

秀吉の金貼りの茶室と『爆弾ハナタレ』のデザイニングとの精神的距離は、極めて近いと考えている。

そうは言っても、『爆弾ハナタレ』のボトルが美しいことを認むるにやぶさかではない。

◇    ◇    ◇

というわけで、本稿をまとめるためにこのボトルをじっと眺めていたのだが、わては通常の用途とは違ったボトルに内在する「有用の美」を見いだしてしまったんである。

そこで今回、茶人のような高尚な感性はお持ち合わせていない不肖猛牛ぬぅあんであるが、かの利休がわざと茶室に一輪の花しか飾らなかったという精神にあやかって、このボトルの新たな利用法をご提案申しあげたい。

ぜひ焼酎愛好家の諸兄にもお勧めして、全国的品評会を開催したいところである。


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