by 猛牛


 日頃から、なにゆえに「本格焼酎」がかくも低く見られるのかが、気になっておりました。“乙類”とはこれ如何に?

 「臭い」「まずい」・・・ならまだ解るのであります。それは個々人の嗜好であるが故に否定は出来ないのであります。飲んで不味いと思われたら、それは致し方ない。「本格焼酎」には“きっかけ”と“馴れ”が必要である、と自らの体験上からもそう思っております。

 しかし、しかしであります。「貧乏人の酒」「お金がないから飲む物」というイメージに至っては、これはもう「本格焼酎」に課せられた“濡れ衣”と言うべきものでありまして、なんとも憤懣やるかたないので御座います。

 そこで本稿におきましては、そのような“賤視”がどのように発生したのかを稚拙ながらも探って参る所存で御座います。内容につきましては本格焼酎党諸兄のご指摘ご鞭撻をいただきますれば幸甚であります。

 では、お付き合いのほど、御願い奉ります。m(_ _)m


(1)ジンと連続蒸留機

■“ハイカラ”と呼ばれた甲類焼酎。

 1910年、愛媛県宇和島市にあった日本酒精株式会社は、『日の本焼酎』を発売した。干し芋を原料に連続式蒸留で得られた日本初の甲類焼酎であるこの商品は、“ハイカラ焼酎”と呼ばれ、安定した品質と安い価格で大好評となったらしい。

 後に連続式蒸留で得られた甲類焼酎のことを「新式焼酎」と呼んで、従来の単式蒸留(=本格焼酎)と区別するようになるが、まず甲類誕生の原点に“ハイカラ”という意識があったことが興味深い。

 なぜ“ハイカラ”なのか?

 それは、『日の本焼酎』誕生を支えた、イギリスから導入された連続式蒸留機の存在が大きいと思われる。西欧からもたらされた当時の最新式蒸留機が造り出す甲類に対して、“ハイカラ”というイメージを抱くのは理解できる。

 新式=ハイカラ・・・それが後に“甲類・乙類”という分け方に、潜在意識として反映されたのではないだろうか。

 というわけで、この連続式蒸留機。1830年代にイギリスで開発され、1895年頃にさらに改良が加えられたイルゲス式連続蒸留機が日本に初めて輸入されている。さて、日本では甲類焼酎が生産されたこの連続式蒸留機、イギリスではもともとこの機械で「ジン」が作られていた。

■“貧乏人の酒”だった「ジン」。

 17世紀半ば、オランダに誕生した「ジン」。17世紀の終盤にはイギリスに伝来した「ジン」だが、政府の奨励策もあって一般大衆に愛飲されていく。

 18世紀には生産量が追いつかないくらいにイギリスで飲まれるのだが、先に述べた1830年代の連続蒸留機の開発で「ジン」が大量生産され、爆発的に消費されるようになる。

 ここで気になるのは、「ジン」はどういう層に飲まれていたか、である。

 一六八九年、オレンジ公ウィリアムとともにイギリスにやって来た。そして、彼はイギリス国内においてフランスのブランデーよりもオランダのジンを飲むことを奨励し、値段を安くした。その結果、ロンドンの犯罪率は急激に高騰する。

 「一ペニーでいい気分、二ペンスで酔いどれ」今までビールやサイダーやスペイン酒に慣れていた人々にとっては、安価な麻薬と同じ効果のものだった。人々は、より強い刺激を好み、必要な二ペンスを得るために窃盗や強盗を犯した。そして、ジンを飲むのは大都市の貧乏人に限られていた。「ロンドン・ジンは強い匂いがある−正直にいうと、むしろ下品な婦人の香水のような」
(出典:http://www.fastnet.ne.jp/~ogura/gin.html)

 一六九〇年以降、蒸留酒製造権の自由化、議会によるジン消費の奨励によって、ジンの消費量 は急速に増加した。しかしこのことは同時に、貧民の居住地区に多くの乱飲者をつくる結果ともなった
(出典:http://www.takara.co.jp/skb/lexicocont.htm)

 イギリスにおいて「ジン」を支えていたのは、安酒しか飲めない困窮者層であった。長い「ジン」の歴史の中で、“貧乏人の酒”としてイメージが固定化されるに至った経緯は、面白い。

 連続式蒸留機の開発の舞台裏には、産業革命に伴った人口の都市集中とスラムの形成があり、そのため急増した都市人口の飲酒需要をまかなうために「ジン」の大量生産が必要となった、という経緯が見えてくる。

■日本の重工業化と甲類焼酎。

 こと事情は、日本でも同じだったのでは?、というのが本稿の仮説である。

 『日の本焼酎』が発売された1910年といえば、日韓併合の年。官営八幡製鉄所の操業開始で日本の重工業化が始まって10年目、日露戦争から6年目にあたる。工業化と海外への膨張主義が進展した時期だ。

 工業化は工場で従事する労働者を必要とするが、それは農村から切り離された多くの人々を都市部に集中させることになった。たとえば官営八幡製鉄所やその後背地にある筑豊炭田でも労働の主体となっていたのは、生まれ在所を捨ててやってきた「流民」たちである。

 彼ら困窮者たちの集中と、その飲酒需要をまかなうために、大量生産が可能な安酒=甲類焼酎の誕生が時代の要請として必要であったのではないだろうか。イギリスの「ジン」と同じ状況が、日本では「甲類焼酎」で展開された、と考えている。安さで爆発的に売れた『日の本焼酎』を支えた受容層は、イギリスと同様であったと見る。

 私が高校生の時に見た八幡製鉄所の風景は、当時でも多分変わりはなかっただろう。

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 「本格焼酎」は極めて土着性の高い酒であり、地域の風土に育まれ、人々の生活と共にある。鹿児島では「酒といえば焼酎」であって、まさに“本場”では「本格焼酎」を賤視するわけはない。

 また「本格焼酎」の受容ということでは、福岡県でさえ20数年前の時点においても芋焼酎はほとんど普及していなかった。当時、鹿児島在住の人が福岡の知人に『伊佐美』を贈ったが、喜ばれるどころか怪訝な顔をされたという逸話がある。かつて私は酒屋のアルバイトをしていたが、店頭で「本格焼酎」を見た記憶はない。本格焼酎の島・九州の福岡県においてさえ、かつては“焼酎=甲類”だった。

 「本格焼酎」は極めて地域限定性が高い酒類であったし、それが全国的な“焼酎”賤視の原因とは考えにくい。

 “焼酎”を賤視する意識は、土着性から切り離されて都市に集中した労働者と、彼らを受容層とする土着性を“漂白”した大量生産酒としての甲類焼酎に対する「貧乏人の酒」というイメージがまず発生源であり、それが「本格焼酎」を含めた“焼酎”全体へと広がって現在に至った、と考えている。

 ある意味、甲類焼酎が謳う「不純物が少ない」「クセがない」とは、土着性を剥奪された“寄る辺無き民の酒”ということの言い換えなのかもしれない。

 さて、次回は大きなエポックとなった太平洋戦争敗戦後の状況を見ていきたい。

(参考資料:http://www.shochu.or.jp/whats/histry2.html)


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