■第一章:日水鯨缶、誕生前夜
■戦火に潰えた捕鯨船たち日本がまさに瀕死状態となる1年前、昭和19年(1944)2月17日。日本海軍が誇る中部太平洋の要衝トラック島は、スプールアンス大将率いる米第五艦隊の艦載機群による大規模な攻撃を受け、軍事・港湾施設に甚大な損害を被った。
トラック島は太平洋を睨む日本海軍の重要基地であり、アメリカで言えば“真珠湾”も同然。まさに戦略の要石である。その虎の子の拠点を踏みにじられ、軍の面目はまったく丸つぶれとなった。
しかし本当の悲劇は別のところに潜んでいた。なんとこの時、タンカー、貨物船、客船など34隻(204,696トン)を一挙に喪失、大日本帝国中枢はボディーブローの様な衝撃を受けた。補給線を脅かされ、かつ補給手段を失うことは、総力戦遂行を根底から覆してしまう。そのショックは、時の内閣の一部改造、陸海軍の両統帥部総長の更迭を引き起こすほどだった。
ところで、この時海の藻屑と消えたタンカーの中に、かつて鯨を追っていた元捕鯨母船があった。第三図南丸。昭和12年(1936)、共同漁業株式会社から日本水産株式会社へと社名変更した年に、第二図南丸と共に建造された捕鯨母船である。
日本最初の母船式捕鯨が始まったのは昭和9年(1934)。東洋捕鯨と共同漁業(現・日水)が日本捕鯨株式会社を設立してその第一歩が踏み出された。翌10年、日本捕鯨株式会社はノルウェーの捕鯨母船アンタークチック号を購入。図南丸と改名し、南氷洋への出漁を開始したのだった。
しかし太平洋戦争勃発後の昭和16年(1941)に遠洋での捕鯨は中止となり、捕鯨母船は徴用。タンカーに改造され南方資源の輸送に従事させられることとなった。皮肉なことに鯨を追っていた捕鯨母船たちは、こんどは自らが追われる身となる。
艦隊決戦主義に凝り固まっていた日本海軍は、自国の海上輸送路の安全確保と敵海上輸送路の破壊について認識を深くしていなかった。しかし、アメリカは潜水艦に通商破壊戦を指令し、次々に輸送船を撃沈して島国日本の弱点を突く戦略を取った。空母機動部隊での行動においても敵の輸送手段、貯蔵施設などへの攻撃を忘れない。
昭和18年(1943)10月28日、図南丸、ベトナム沖で沈没。
昭和19年(1944)2月17日、第三図南丸、トラック沖で沈没。(*1)
8月22日、第二図南丸、南シナ海で沈没。結局敗戦までに他社のものも含めて6隻の捕鯨母船がすべて沈没。捕鯨船も67隻が沈没か行方不明という運命を辿った。さらに細々と行われた沿岸捕鯨自体も、昭和19年から米潜水艦の日本近海での活動が盛んになると、出漁自体が極めて危険となった。出漁命令を巡って殺人事件が起こるほどの緊張が乗組員の中にみなぎっていたのである。
食料を運ぶにも、食料を捕るにも船がない。船があっても出漁できない。完全な孤立無援、そんな状態に日本は徐々に追い込まれていったのである。
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■転落する大日本帝国、生命線の崩壊
昭和20年(1945)1月、南部仏印サイゴン(現ベトナム・ホーチミン市)の港から、南方の石油や物資を満載した船団が出港を始めた。その名は、ヒ八六船団。物資を満載したタンカー4隻、貨物船6隻から成る、大日本帝国にとっては最後と言ってもいい油輸送であり大型船団でもあった。シンガポールを出発後当地に立ち寄り、いよいよ日本内地への帰還を目指していた。
1月9日にサイゴンを出港した船団は、早くも米陸軍B-24リベレーター爆撃機に発見され触接されつづける。しかし日本軍は大型爆撃機の偵察行動を阻止しうる空軍力をすでに失っていた。さらにその頃跳梁跋扈していた敵潜水艦を避けるため、沿岸2キロくらいの位置を保って航行しつづけるという細心の注意をも払わねばならなかったのである。
ついに1月12日、クイニョン湾外に出てしばらく、船団の命運は窮まった。午後2時、米海軍ハルゼー提督麾下の空母から進発したSB2Cヘルダイバー艦上爆撃機、TBMアベンジャー雷撃機総勢70機の大群が、防備無きに等しいヒ八六船団に襲いかかってきた・・・。
3月、マリアナの米第21爆撃軍団は日本本土戦略爆撃の方針を大きく転換した。軍需工場などに対する昼間高高度精密爆撃から、ついに市街地への夜間低高度焼夷弾爆撃に踏み切ったのだ。つまり工業施設へのピンポイント的攻撃から市民を巻き込む無差別爆撃への路線変更である。その手始めとして、同月10日東京は地獄の猛火に包まれる。
そして27日、もう一つの新たな作戦が実施に移された。ミッション・コード名「Starvation」、B-29から機雷を落下傘投下して日本を海上封鎖する“飢餓作戦”の発動である。米海軍提督ニミッツが米第21爆撃軍団に提案したこの作戦の眼目は
1)日本への原材料および食料の輸入の阻止
2)日本軍隊への補給および移動の阻止
3)日本内海の海運の崩壊の3点。水深が浅く潜水艦の侵入が困難な海域、つまり潜水艦での通商破壊戦が行いにくいところは機雷で封鎖する挙に出たのだ。中でも北九州沿岸、特に関門海峡周辺が最大のターゲットとなった。
27日の初攻撃では、第313航空団の102機が出撃、うち94機(一部資料では92機)が彦島南方から若松沖、響灘、水島水道、周防灘に1000ポンド・2000ポンドの音響機雷と磁気機雷を投下した。その後実に敗戦の日までこの作戦は執拗に継続され、日本は真綿で首を絞められる状態となる。
そして戦争末期には、日本本土沿岸を航行する食料運搬の小さな木造船を米潜水艦が“浮上砲撃”、積み荷の食料を海中投棄するなど、米軍は傍若無人に暴れ回った。抵抗力を失った日本の生命線は、完膚無きまでに破壊され切断されたのである。
昭和16年12月の500総トン以上の商船で輸送した物資量4,178,499kt、敗戦を迎えた20年8月の同輸送量318,797kt・・・実にマイナス93%もの減少。その間に日本人船員約7万が還らぬ人となった。
玉音放送が流れる頃、深刻な食糧不足が日本国内を襲っていたのだった。
(つづく)
*注記
1)第三図南丸の沈没日時は、『海上護衛戦』では2月17日〜18日、『クジラへの旅』では2月20日となっている。
【参考・引用資料】
●『海上護衛戦』 大井 篤(朝日ソノラマ1992)
●『米軍資料 日本空襲の全容』 小山仁示訳(東方出版 1995)
●『米軍が記録した 日本空襲』 平塚柾緒編著(草志社1995)
●『写真/太平洋戦争 第9巻』 雑誌『丸』編集部編(光人社 1995)
●『クジラへの旅』 柴 達彦(葦書房 1989)
●『鯨物語』 日本水産株式会社編(自社パンフ 1987/9)