「某九州人のちくわぶ遭遇」
衝撃の告白手記を独占入手!

ここにご紹介するのは、牛心亭亭主の私が勤務する会社の、私が所属する部署の、私のとなりに座っている後輩が、ちくわぶに遭遇した時の衝撃の告白手記である。

九州民族主義者の私としては、この戦慄すべき内容ゆえに公表をためらったのであるが、真摯に事実を直視することを避けては「ちくわぶ研究」の前途に大いなる障害をもたらすと判断。今回の掲載となった次第である。

全編にそこはかとなくおおっぴらに漂う夫婦愛とともに、筆者のちくわぶに対する求道的真情が横溢して涙を禁じ得ない内容となっている。



体験手記
いやがる美少女をちくわぶで無理やり・・・


 秋もだんだんと深まってきた10月も暮れようとしていたある日、私はいつものバスを降り迎えに来ていた妻の運転する車に乗り込んだ。そこからわが家まで約5分の距離である。いくつかのカーブを超えて休日には釣人でにぎわう溜め池の横に車がさしかかった頃、妻の口から出た言葉は思いがけないものだった。

 「冷凍庫に入れていた例のアレ、料理してみたけど・・・」

 世の中に晴天の霹靂という言葉があることは知っていたが、これほどぴったり来る情景を私の三十有余年という短い人生の中で経験したことはなかった。溜め池を通りすぎ、幹線道路から家に向かって横道にそれるあたりになってやっと私は妻に聞き返す余裕を取り戻した。

「あ、アレって、もしかしてアレのことかい?」
「そうよ。あなたが会社の人からもらってきたの。」

 ・・・あれほどアレを使うときは心の準備がいるから前もって言うように口を酸っぱくして言っておいたのに、と心の中で舌打ちしながらも、私は、自分の中にこれから体験しようとしている未知の味をどこかで期待している別の自分がいることを意外に冷静にも気付いていた。

注1)説明が遅れたが、アレというのは私が会社の先輩である「牛」氏から秘密裏に入手した「ちくわぶ」という食物のことだ。なんでも関東の人達がこのんで食するトレンドな食材らしい。

 玄関の鍵を開けて中に入ると、いつもと変らないはずのわが家の空気が微妙に違うような違和感を私は覚えた。しかし、それがアレとこれから私が遭遇するであろう未知の体験への畏怖によるものだということは私自身よくわかっていた。リビングに続くダイニングに入った私は、なにげなく妻に聞いてみた。

 「ところで、どんな風に料理したの?」
 「ん、おでん。」
 「・・・」

 まさかこのような展開になろうとは夢にも思ってなかった私は正直うろたえた。「おでん?」「そうよ。」おでんにちくわぶ。これこそ、私が件の「牛」氏から耳にたこができるくらい聞かされていた、ちくわぶの悪名をさらに高めること甚だしい調理法ではないか。

 軽い眩瞭いを覚えながら私はテーブルについた。何も知らない妻が今日の料理を器にもりつけている。目の前に置かれた器の中には他の具と共にちくわぶがで〜んと鎮座している。直径はおよそ3センチくらいはあろうか。長さもそれと同じくらいにブツ切りにされている。

 おそらく、一本を四つほどに切ったのだろう。もの言わぬちくわぶが私を威圧しているようだ。箸でつまんでみるとわずかに弾力をもった固さのためか重量感を感じる。とりあえず他の具を先に食べ始め、それからちくわぶに箸を移す。つまみあげるとやはりずっしりとした重みが感じられた。あたかも、食べる者に覚悟を必要とさせるような態度をとっているようだ。

「東京の人たちは、こんなものを毎日食べてるのか・・」
(注2)そんなことはないようです)

 さすがに日本の首都に住む人たちだけのことはある、と感心しながら私はちくわぶにかぶりついた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「ぬちょ」あるいは「ねちゃ」という擬音が正しいのかは分からないが、私の歯に粘りつくような感触でちくわぶは噛切れた。意外な食感だった。これまでに得た情報から想像していたそれはもっとぱさぱさしたものだった。

 「ほう」思わずそのような声が私の口をついて出た。大分名物だんご汁のだんご、あるいはすいとんという汁の中の小麦粉のだんごが、これと近い食感をもっている。そのいづれも私は好んで食べるクチだ。「これはいける」私はうれしくなった。妻も多かれ少なかれ同じような印象を持ったようだった。

 ほどよくおでんの汁がしみて、なんともその味をひきたてる。否、ちくわぶそのものに味があるわけではないのだが、おでんの味とあいまって創られた妙味とでもいおうか。その歯応えも始めは柔らかくさらに噛むとずっしりとした歯応えを感じさせるそれは、よくできた讃岐うどんの麺やもちに通づるものを感じた。

「人は予想を超える体験をした時に感動を覚える」という、マーケティングの先輩から教えられた言葉があるが、この日の私の感動とはまさにこの言葉があてはまるものだった。

 私は自分の先入観を恥じた。自ら試してみるまえに、様々な情報に囚われ、この素晴しいちくわぶをまずいものだと決めつけていた自分を。百聞は一見にしかず、この使い古された、しかし真実を内包している言葉が私の頭の中を渦巻いていた。

 それに較べ、このちくわぶはどうだろうか。自らは決して主張しようとはせず、色々な料理に対応しようとする柔軟性と懐の広さを持ち合わせている。なんとも健気な食材である。はたして、わが家の食卓のちくわぶは残らず食べてしまった。

 私と妻はこの偉大なるちくわぶに敬意を表してとっておいたワインをあけ、乾杯した。良かった。この日の経験がなければ、ひょっとすると私達はこのままこの浮世の真実の一つを知らないまま21世紀を迎えることになったかも知れない。一本のちくわぶのおかげで私達はまた一つ成長したような気がする。

 「21世紀に間に合いました。」そして、「ありがとう、ちくわぶ!君達の将来に幸多からんことを心から祈っている。」@


1999年秋 らくだ庵マスター

※タイトルは本文とは関係ありません。